■直接神と向き合う: 牧師の役割

紹介文
神は牧師を通してだけでなく、「普通の」人たちを通して語られます。「ひとりが話し全員が聞く」という構造が、「普通の」人たちの発言の機会を奪ってしまうことがあります。キリストのものとされた人たちは、神の霊によって語る人たちであり、彼ら自身が聖霊の宮です。神から導きを受ける人たちの傍に立って励ますことが牧師の役割です。


・対話型聖書学び会

対話型聖書学び会を毎週近所の人たちとしています。教師はいません。正確には、イエスさま以外の教師はいません。各自聖書を読み、そこから神が自分に語っておられることを受け取り、それを分かち合い、それぞれが受けた神の言葉に自ら従うことができるように励まし合います。

自分が受け取ったことを、最初に数人で分かち合うのですが、後でグループ全体で話すときには、自分が話したことではなく、パートナー(分かち合いの相手)が話したことを報告します。「○○さんは、このように言いました」と言って、他者の発言を皆の前で話すのです。そのことによって、少なくとも三つの効果が期待できます。

第1に、相手の話を聞く訓練ができます。自分の考えで頭がいっぱいになっていると、他者から学ぶ余裕がなくなりってしまいます。互いに学び合うことで、真理を多角的に理解することができます。第2に、自分が話したことをパートナーが皆の前で話すのを聞くことで、自分が何を学んだのかを確認したり、そこから刺激を受けて、新しい洞察を得たりするようになります。第3に、自分のコミュニケーション能力を高める契機となります。他者の報告が、フィードバックとして機能するのです。

・神が一人ひとりに教えられる

対話型聖書学び会で、エペソ人への手紙第1章の前半を学んだときのことです。最初に口火を切った人は、1章4節を取り上げました。もちろん、2人組になったパートナーがその人の代わりに話した内容です。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」彼女は、「私の人生が神の大きな計画、その『神の物語』の一部にされたということがわかって感動しました。嬉しくてたまりません」と述べました。

2番目の人の発言内容は、8節と9節、つまり、「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました」という箇所から次のように分かち合いました。「神が知恵と思慮深さをもって語られるように、私も福音を分かち合うときに、神の知恵と思慮深さを与えられるのだと思いました。これまでいつもそうだったし、これからもそのように導いてくださることが確信できました。」

これらの人たちは、神学教育を受けていない、「普通の」主婦たちです。私は彼女たちの言葉を聞きながら、神ご自身が彼女たちに教えておられるのだと思いました。

もう一つ、他の方の発言を紹介しておきましょう。その人が印象に残ったのは13節でした。「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」彼は、神が自分の人生に証印を押されたことを知って安心したと言いました。彼は信じて3年目の青年です。その日に開いた聖書箇所から、深い真理を読み取りました。

・「普通の」人たちが普通でないことを話す

彼らは教師でも牧師でもありません。「普通の」生活をしている「普通の」人たちです。そこに私はいつも感動するのです。私は、長い期間、神学教育を受けた者ですが、彼らと学び会をするたびに、一人ひとりから教えられます。神が彼らを通して語られるのを聞いて、神はなんと美しいことをなさるのかと思うのです。

パウロは教えます。「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(第1コリント1:28-29)神だけが褒められるため、そして知者だと思って自惚れている人を辱めるために、神は「普通の」人たちを用いられるのです。

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)ペンテコステの日に、預言者ヨエルが預言し、ペテロが説いた通りのことが、今の時代にも起こっています。

さらに、踏み込んで申し上げるならば、神がその人たちの中に住んでおられます。パウロは、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(第1コリント6章19節)と言っています。どこか神聖な場所に行って礼拝する必要はありません。神は私の中に、そして、主に結びついた仲間の中におられるのです。

・説教者の役割

このように考えると、教会堂で牧師が説教するときに、非常にもったいないことが起こっていると言えないでしょうか。皆が神の言葉を話すことができるのに、牧師だけしか話さないことで、他の神の民が話す機会を奪ってしまっているからです。牧師の中におられる神様は、会衆の中におられる神様よりも優れた方なのでしょうか。

このようなことを書くと、きっとある人たちは反論するでしょう。初心者にも理解できるように、また、ベテランでも受け取りやすいように、よく準備して話す役割を神が牧師に与えておられるのではないか。あるいは、神が警告しようと思っておられるときには、説教者がいなければ、聴衆にとって耳が痛いことを誰が語るのか、と

私はそのように反論される方たちに二つだけ質問をさせていただきたいのです。第1に、「あなたの語った説教は、聴衆の中に留まり、神への従順を呼び起こしているでしょうか。」第2の質問はこうです。「あなたのメッセージを聞く人たちが、自立的に神と向き合うことを本当に望んでいますか?」

私はかつて、自分は説教が上手だと思っていましたし、神の言葉を仲介することに誇りと喜びを感じていました。けれども、「ひとりが話し全員が聞く」という構造自体が、一人ひとりに語られる神の働きを妨げていたことを理解したときに、神と人の間に立とうとしないで、神から導きを受ける人たちの傍に立って励ますことにしました。語る人も仲介する人もすでにおられるのですから…。

説教者の召しを否定するつもりはありません。福音書のイエスさまの言行録のほとんどが、弟子のグループや個人に向けて語られた記録ですが、山上の垂訓のように群衆に向けて語られた言葉もあります。私は説教者だったので、その苦労も喜びも、ある程度わかっているつもりです。しかし、一人が話し他の全員が聞くというスタイルを通すなら、すでに祭司とされている多くの人たちの声をどのように聞くのか、という点も考えていただきたいのです。

福田充男

RAC通信プラス】 – 2020.02.04号…【有料版】第218号 福田充男