荒野の誘惑(ルカ4:1-13)は三つの共観福音書のすべてに取り上げられていますが、ルカだけが、イエスさまの受洗と荒野の誘惑の間に、アダムに至るイエスさまの系図(ルカ3:23-38)を挿入しています。これは、ルカがこのエピソードのことを、「イエスさまがアダムの失敗を取り返す出来事」だと位置付けているからだと考えられます。
ユダヤ人を主な読者と想定して書かれたマタイの並行箇所では、ユダヤ人の祖先であるアブラハムまでしか系図が辿られていないのと対照的です。
イエスさまがアダムの失敗をどのように挽回されたかという視点で、「荒野の誘惑」の記事を解釈してみましょう。
・「証明してみろ」と迫る同種の誘惑
エバが蛇から誘惑を受けたときのことです。蛇はエバに、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(創世記3:5)と言いました。
善悪を知る方は神お一人です。被造物である人間は善悪の基準を自前で持つことはできません。「わたしが正しいと思うから正しい」などと主張することが神への反逆です。人が正しく歩むためには、神に善悪を教えていただいて、「ただ聞くままにさばく」(ヨハネ5:30)しかないのです。
神と関わりなく自分の知識や力を世界に示す立場を得るようにと、蛇は人を誘惑しました。蛇の嘘を口語体で言い換えてみました。「情けないよ、エバ! 自分で判断できないの? 子どもの使いじゃあるまいし、神に盲従するだけでいいと思うのかい? 善悪を知る木の実を食べて神のようになりなさい。そうしたら、だれかに頼らなくても善悪を判断できる。『一人前の大人』であることを証明しなさい。」
蛇は女の自尊心をくすぐる誘惑をしたのですが、荒野の誘惑も同じ種類の誘惑でした。キーワードは、「あなたが神の子なら」でした。イエスさまは、悪魔に対しても、国々に対しても、御使たちの前でも、神の子であることを証明する必要はありませんでした。それは、御父とご自分にとって自明のことだったからです。
自分が誰か、ということを知っているなら、それを証明しようとは思わないでしょう。また、人からの称賛ではなく、神からの栄誉を求め、神に喜ばれることだけを求めて生きようとしているときには、「証明してみろよ」と誘う悪魔を退けることができます。
イエスさまはアダムとエバが踏み損なったステップを踏み直して勝利されました。イエスさまは新しい人類の代表として、アダムとエバの失敗を克服して、新たに勝利の道を敷かれたのだと思います。
・従順に関するテスト
もう一度創世記に戻りましょう。神は、「善悪の知識の木から取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」と言われたのですが、蛇はそれを否定する前段として、戦略的に、「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」と質問しました。
「食べてはならない。死ぬといけないからだ」という女の発言のあやふやさにつけ込み、「あなたがたは決して死にません」と断言して、神の言葉に逆らうように仕向けました。エバは神が与えられた戒めを軽く扱ったために、蛇に付け入る隙を与えてしまいました。
蛇はさらに、神の善意に疑念を挟ませるように誘導しました。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」神がまるで悪意をもって知識を独占する方であるかのような言い回しです。
地を掘って、主人の金を隠したしもべの言い訳のことを思い出します。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」(マタイ25:24)。エバは、このしもべほど積極的ではなかったかもしれませんが、神の善意を疑って禁を犯しました。こうして、エバは神のみ言葉とご人格を軽んじ、「食べると必ず死ぬ」とおっしゃった神を試しました。
荒野における悪魔の誘惑が、第1に言葉、第2に礼拝対象、第3に神を試みるかどうか、という従順に関する三段階のテストだった点からも、エデンで最初の人がクリアできなかった試みに、荒野でイエスさまがもう一度取り組みなおして勝利されたと解釈することができます。
・御霊の力(デュナミス)を得る
天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と声をかけられ、聖霊に満たされたイエスさまが向かった先は、働きの場ではなく荒野でした。しかも、他ならぬ聖霊がイエスさまを荒野に引いていかれました(ルカ4:1)。
40日後、荒野における誘惑に勝利された後、イエスさまは、「御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった」(ルカ4:14)とあります。荒野に引いて来られたときは、御霊に満たされていただけだったのですが、荒野を去った後には、御霊の力が対外的に実質を伴う形で発揮されました。荒野で試みを受けられたのは、御霊の力を受けるためだったのです。この力は、ギリシヤ語の「デュナミス」で、ダイナマイトの語源となった言葉です。どんな硬い岩盤をも砕く力です。
生命をかけた「服従への試み」を通ったあとに、与えられるのはデュナミスです。言葉を実行する者だと神によって確かめられた人を通して、神が豊かに働かれるからです。それは、罪を犯す前に、「神の霊を受け、神の似姿に造られた人間」が行使することができた力です。イエスさまは、その生涯を通して、人がもう一度、本来の神の力を受け、神とともに世界を治めることができる立場を回復されたのです。
神はあわれみ深い方なので、わたしたちが愚かにも、自分の夢を具現化するために神の力を利用しようとするときも、ときにはそれを与えられることがあります。しかし、神の言葉に従い、主をのみ礼拝して仕え、神を試みないようになるときに満たされるデュナミスは、神ご自身が計画されたことを成し遂げる力であり、圧倒的な勝利をもたらします。
そのときには、自分の夢に執着しなくても、わたしたち自身が神の作品、そして神の夢でもあるので、神がご自身の夢を完遂されるために発揮されるデュナミスを帯びるようになります。「証明してみろ」と迫る悪魔の誘惑をはね返し、イエスさまが仕切り直して整えてくださった従順の道を進み、「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力(デュナミス)がどのように偉大なものであるかを」(エペソ1:19)知ることができるようになりたいと思うのです。
福田充男
【RAC通信プラス】 – 2020.10.06号…【有料版】第225号 福田充男