西遊記の主人公である三蔵法師のモデルとなった7世紀の仏教僧玄奘(げんじょう)は、すでに入滅していた釈迦の言葉が記されたお経を求め、国禁を犯して西域へと陸路で旅立ちました。仏典の研究は原典に拠るべきだと考えたからです。彼は16年後、経典657部をインドから持ち帰り、死の直前まで中国語に翻訳し続けたのですが、持ち帰った経典全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができなかったそうです。
玄奘(げんじょう)のように、真理を求めて旅に出る人たちがいます。けれども、艱難辛苦を乗り越えて真理を理解した人たちが、その真理をどう生きたのかという質問は、別枠で問う必要があるのだと思います。理解と実践との間には、ときとして越えがたい溝があるのです。
・真理を求める旅
ギリシャ語やヘブル語、そしてアラム語まで学んで原典に当たって、イエスさまの言葉や教えを解釈しようとする人たちがいます。これらの聖書学者は考古学者のように、写本を求めて長い旅に出ることはないのですが、オリジナルから学ぶことを志し、人生をかけて困難に立ち向かったという意味では、同じく「旅人」に例えられるかもしれません。その道のりは遠く、限りがありません。
私は、難解な古代語を習得してまでも真理に触れたいという探究心や、正しい教えを現代の人々に伝えたいという情熱に駆り立てられて切磋琢磨する学者たちをリスペクトしています。たまにではありますが、自分も写本を調べて、より深く聖書の言葉を理解しようとすることもあります。私はこれらの「旅人たち」の発信に感謝しています。
一方、学ぶことと実践することは必ずしも一体ではありません。世界で一番遠い距離は、頭と手の間の1メートルほどだというプレゼンのネタがあります。人は理解したことを、必ずしも行動に移しません。むしろ、「わかっちゃいるけどやめられない」ことに悩む方が多いのです。祈りについて学ぶ勉強会で議論沸騰したり、愛について学ぶ研究会で言い争うというようなことは、ありがちなことです。
百の真理を学んでも一つとして実践しない人と、一つだけしか学ぶ機会がなかったがそれを実践する人とでは、どちらが神に喜んでいただけるでしょう。山上の垂訓の締めの言葉は、後者に与えられる祝福について説明しています。聞いて行なう人は賢い人です。彼らは、人生の試練に立ち向かうことができます。
・ことばは身近に
岩の上に家を建てた人のたとえは行動への呼びかけであり、山上の垂訓の締めです。それと同じように、申命記の締めもまた、実行を促す勧めでした。申命記は、モーセが死ぬ直前にした三つの説話をまとめた書です。多くの命令が語られた後に、「それを実行することは難しくない」とモーセは民に伝えました。少し長いですが引用してみましょう。
「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、『だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。』と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。』と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」(申命記30:11-14)
明示されている命令に服従するために、壮大な旅に出る必要はありません。みことばは私たちのごく身近にあるからです。身近にあるから思い出すことができるし、確認することができます。覚えて暗唱することもできるし、なんらかの決断をするときに参照することもできます。
パウロは、この申命記の言葉を引用した上で、「これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです」(ローマ10:8)と述べています。「近づくこともできない光の中に住」(第1テモテ6:16)んでおられる聖なる神が、人に接近し、ちりに過ぎない人の心に、言葉を与え、それを告白することができるようにしておられます。
ことばを聞くために、16年の旅に出る必要も、ヘブル語をマスターする必要もない。修行する必要も割礼を受ける必要もありません。ことばは今や、私の心に、そして口にすでにあるのです。ただ、心で受け取り告白するだけで救われる。なぜなら、イエスさまが、罪の清めのわざを成し遂げて神と人の間に平和をもたらしてくださったからです。これがパウロが伝えた信仰です。
・聖霊の働き
キリストが成し遂げられた救いのわざを、今の私に適用してくださるのは聖霊の働きです。聖霊は、私たちの目を開き、大切なことを思い出させ、真理に導き、あかしをしてくださいます(cf: ヨハネ14:26; ヨハネ16:8; ヨハネ16:13: ヘブル10:15)。そして、父と御子の思いを伝え、私たちがそれを実行する力を与えてくださいます。
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ17:9(口語訳))ので、私たちの心の中には、多くの御心にかなわない思いがあります。しかし、十字架と復活の後に遣わされた聖霊は、私たちの心にみことばを植えつけてくださっているので、それを素直に受け入れるだけで、新しく歩み出すことができます(cf. ヤコブ1:21)。
また、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて」(ピリピ2:13)くださいます。聖霊の働きによって、私たちの心の中に、神の願いがすでに仕込まれているのです。多くのジャンクな思いの中から神の思いを選び分け、それを確認して告白することで、神が願っておられる「事」が実現していきます。
そのような選別と実行は、訓練することで次第に短い時間で、ときには一瞬でできるようになります。ヘブル人への手紙には、次のような記述があります。「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:14)神からのことばを見分ける感覚の訓練を通して、成長し、おとなになっていくのです。
使徒の働きの8章29節には、御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた、と記されています。ピリポが御霊の言葉を一瞬で見分けたことで、大国エチオピアに福音がもたらされていきました。これが、キリストに結び付けられた大人のあり方です。
「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」という詩篇1篇の祝福は、生活や働きの場で判断すべき具体的な一つひとつの事柄について、神に聞いて実行するときに実現します。そして、従う生活を続けることで、ますます見分ける感覚が身についてきます。ときには、神に聞いても回答が届くまでに時間がかかることもありますが、すぐに判別できることも多くあるのです。
父と御子は、ことばを守る人のところに来て、その人とともに住む、とイエスさまは約束されました(cf. ヨハネ14:23)。同居している家族と話すように、神と会話することができる。これがイエスさまが十字架を通して回復してくださった関係です。私たちはキリストによって、アダムが最初に神と結んでいた関係に入れられたのです。これが福音です。多くの日常的な判断のために、ことばを求めて旅する必要はありません。ことばを発する神が、私と一緒に住んでおられるからです。
・与えられたことばに集中し、与えられた立場を喜ぶ
神のことばを受け取るための3つのコツについては、RACホームページに収録されている「その5 神の声を聞き分ける」という短い記事をご覧ください。動画もございます<https://www.youtube.com/watch?v=cBUcZP0QQlg>。19分あたりから5分ぐらいの対談が該当部分です。もっと詳しく知りたい方は、書籍やDVDをご参照ください。
本記事では、神のことばを受け取り始めた方が陥りがちな二つの罠についてご紹介し、それらの罠に対する対策について触れさせていただきます。
第1の罠は、注意の拡散です。人は日々、多くの刺激を受けて、それを知覚したり認知したり、それに対して反応したりしながら生活しています。そのため、短い時間でも多くの考えや感情が湧き上がってくることがあります。それらの無数の思索の中に、神が与えられたことばがあるのですが、当然、それ以外の思いも心の中に存在します。
神の思いと人の思いが一体となる度合いが増えていくことが、成長であり聖めだと理解することができます。その成長は生命が尽きるまで続くので、生きている間は、神の御心にかなわない考えや気持ちや計画が、心の中に浮かんでは消えるという状態が続きます。人は一生の間、心の中に浮かぶ思いの、どれを選択して行動するのかという課題から逃れることはできません。
ときどき、心はごちゃ混ぜ状態になってしまいます。そのときに、混乱してしまったり、未成熟な反応や悪しき思いが浮かぶことを意識し過ぎて失望してしまうならば、せっかく神が植え付けてくださっていることばに注意が向かなくなってしまいます。
パウロは次のように勧めています。「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)心新たに選び直すことで、御心を選び取ることができます。選び取ったら、そこに集中し、告白し、注意を向け、実行します。正しい思いに焦点を絞ると、その他の思いはフェードアウトしていきます。
第2の罠は、自分を責めることです。生きている限り、悪い考えや的外れな思いが心に浮かんでは消えますが、そこに注意を向けると、「こんなに悪いことを思った私はひどい奴だ」と自分の悪口を言い始めてしまうことがあります。そのようなことを繰り返していると、そういう心の癖ができてしまいます。そこから生産的な結果は何も生まれません。
人生は神の作品で、作者であられる神は人生を完成してくださるのですが、完成品だけを愛されるのではありません。完成に至る途上の作品も愛しておられます。神は、私たちが誘惑と戦っていること、またときには妥協したり、負けたりしながらも戦い続けていることをご存知ないでしょうか。その状況を知った上で、「あなたは私の最高のアートだ」と言ってくださるのです。
イエスさまは、「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)とおっしゃいました。天国の市役所では、一度書かれた戸籍が、点線になったり消えたりするでしょうか。確かな立場を与えてくださった神を喜ぶことが私たちへの命令であって、自分の弱さや罪を嘆くことではありません。
私を裁く方は神なので、私が神を押しのけて裁判席に座り、判決を下すことはできません。それに、もう裁定は下されているのです。もし、心に責めを感じることがあるなら、神に告白して許していただくだけです。神の作品である自分の悪口を言う人は、作者である神を貶めています。
心に浮かんでくる「神由来ではない思い」に過剰反応する「生まれつきの良心」の働きを、キリストの血で清めていただいて、信頼しきって、喜びに満たされて、神に近づくようにいたしましょう(cf. ヘブル10:22)。
福田充男
【RAC通信プラス】 – 2020.06.02号…【有料版】第221号 福田充男