■「隣人を祝福する」という祝福

イエスさまはご自分を殺そうとする者たちのことを、十字架の上で執りなし祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)自分を傷つける者に対して防衛したり、攻撃的したりなさらないで、極限の状況のなかでも、なお相手の赦しを祈られました。

イエスさまは、罪人である私たちが受けるべき罰をすべて身代わりとして受け、苦しみを味わい尽くされました。十字架はイエスさまの前に父が置かれた「苦難の杯」(参照: ルカ22:42)でした。彼はひとりぼっちで、全人類の罪を帳消しにするために、御自身を完全な贖いの供物として神に献げられました。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:48, マルコ15:34)という最後の叫びは、離れることなど考えられなかった父に捨てられた子どもの悲鳴だったのだと思います。自分が犯した罪の代償として、実は私が叫ばなければならなかった叫びを、イエスさまが代わりに叫んでくださいました。

御子にとっても、御子を見捨てられた御父にとっても、これ以上ない犠牲でした。十字架の出来事は、罪の結果である死から私を救い出そうとされた神のドラマの記録です。それほどまでに私は、神の目に尊い存在とみなされました。父は、十字架上で、御子を捨てて私を取られたのです。私はイエスさまの死によって生命を受けました。

そのようにして与えられた生命を、私は何のために使うべきでしょうか。命をかけて御父と御子がご自身の御元へと招いてくださった隣人を愛するために、私の生命は使われるべきです。それが生命を使うこと、つまり私の「使命」なのです。