■牧師の役割を再考する

牧師は多くの教団では教師と呼ばれている。主任牧師は「正教師」という資格を教団から授与されている必要がある。そのせいか、牧師の主な役割は「教えること」だと理解されている。

牧師の教えは主に説教という形を取ることになっている。礼拝において、ほぼ一方的に牧師が会衆に対して語るという「神聖不可侵とみなされがちな形式」だ。そして教会はこれこそ、会衆の一人ひとりが成長し、より良きキリストの弟子として生きるようになるための最善の方法だと信じ、努力し続けている。

しかしあるデータによれば、一方的に教えられたことは、3日以内に9割忘れてしまうらしい。そして残念ながら、教会の現状はこの事実を反映しているように見える。牧師たちが一生懸命説教して教えても、それがしっかり記憶されているようには思えないし、一人ひとりがキリストの弟子として現実生活を生きるという結果を効果的に生み出しているとは感じられない。このような感想は牧師たち自身から、よく耳にする。

説教の対象は、基本的に成人を中心とした会衆であることが多い。そして成人学習の性質と子どもの学習の性質は根本的に異なっているのだが、説教という方法はそれを考慮に入れているようには見えない。このことも、説教を通して伝えられた教えがあまり実践されないことの原因かもしれない。

成人学習においては、単なる知識の伝達では学習効果は上がらない。研究によると、成人は、その学習が緊急に必要だと感じているときに、また、能動的に参加することができる状態のときに学習する。自己主導的に学習できない環境ではほとんど学ばない。

これらの事実や現状を鑑みて、一つの提案をしたい。

教師は、そもそも何のために教えるのだろうか。教師の目的は、教えを聞いた人が実行するようになることだ。それなら、教えの実行という目的から逆算し、教師=「説教する人」という定式を再定義するのはどうだろう。教師=「ラーニングファシリテーター」に変えてみると良いのではないかと私は思っている。