■天命に生きるか、ねたみに生きるか

最近気づいたことがあります。それは、ほとんどの人類が天命を無視して生きているということです。「いえいえ、何十億ものキリスト者が存在するじゃないか」と言って反論する人がおられるでしょうか。しかし、クリスチャンでも、神とのパーソナルな関係の中で神からの指針を受け取って実行している人はそれほど多くはないというのが私の見立てです。

一つの例を挙げてみましょう。先日クリスチャンの友人が子育てのことについて正直に話してくれました。「私は若い頃、お金がなくて子どもを塾に通わせることができませんでした。友達と一緒に塾に行けずに、一人で家にいる娘を見て悔しかった。それで、いつかは、未信者の友人たちに、『塾に行かずとも、信仰によって娘を一流大学に入れた』と言えるようになりたいと思いました。未信者の金持ちの鼻を明かしてやろうと思ったのです。」

「努力の甲斐があって、娘は国立大学を卒業しました。しかし、今から考えると、子育ての動機がねたみだったということがわかります。その上、この私の利己的な動機は、『イエスさまが成功させてくださった』と私が大声で証しすることで、人々の目から隠されてしまいました。でも、神様は隠れた思いを知っておられます。私の虚栄心に付き合わされた娘にも申し訳ないことをしたと思っています。」

漫画「巨人の星」の雷親父、星一徹よろしく、自分が若い頃に描いた夢、そしておそらく到達できなかった夢を、子どもを通して実現しようとする親はたくさんいます。上の例では、信仰の名によって恨みを晴らすという逸脱が起こってしまいました。勝手な期待を子に押し付ける親も、親の代理戦争をさせられる子どもも、間違った動機で生きています。そして、使命とはかかわりのない方向に進んでいます。

伝道者は言いました。「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」(伝道者4:4)と…。クリスチャンを含め、わずかな例外を除いて、ほぼ全員が、過去の傷や誰かへの対抗心や所属集団の名誉を守るために、神から与えられた尊い人生の時間も労力も資源も無駄にしているのです。