■名誉・恥を考えて聖書を読む
前回の記事では、「名誉・恥」の文化の福音を紹介しました。私たちが信じてきたキリスト教は、多くの場合、強い西洋文化の影響を受けた教会を背景に説明されているため、「名誉・恥」の主題があまり出てきません。イエス様が私たちの罪を背負ってくださったので、私たちは罪のない者として、聖い心をもって神様の前に立つことができる、という福音です。
まさにその通りですが、一般的に言うと、東洋の人は罪悪感より恥を痛感します。日本人に説明の必要はないと思いますが、罪悪感と恥はかなり違います。罪悪感は自分の行動の正しさの判断です。自分の中にある「良心の声」を聞いて、心の中に罪悪感を覚えます。つまり、社会のルールは人の中にあります。
個人の判断が重要視される西洋では、そういう「良心の声」がかなり大きく響きます。それと比べて「恥」という概念は個人の範囲を越えた広がりを持ちます。集団主義社会である日本では、人は個人ではありません。「人間」はいつも「人の間」に立ちます。
だから、社会のルールは人の外、あるいは人の周りにあります。自分の行動は自分だけが判断するのではなくて、他の人にも影響があり、他の人からも判断されます。「恥」は他人が自分を否定的に判断することへの恐れです。または、自分の行動によって、社会的な地位や名誉が傷つくことへの恐れです。
聖書に登場する人物は、日本のような集団主義社会に住んでいました。ですから、罪悪感の観点から聖書を読むと、本当の意味を誤解する可能性があります。今回の記事では、「名誉・恥」に注目して聖書の箇所を読みましょう。