■金銭の教えの罠
私は、自分のライフワークの一環として、投資助言をおこなっています。投資助言とは、クライアントの富を守りかつ拡大することを目的に、投資判断のための適切な情報を提供することです。
私を信頼してくださっている大切な方々の富をいかに守り、増やすか。それが私にとって日々の重要な関心事の一つです。富を拡大しているクライアントの声を聞くと、私は大きな喜びを感じます。そして、このような役割を与えてくださった神様に感謝します。
さて、聖書では旧約から新約まで、何度も繰り返しお金について言及されています。「お金」というテーマはそれほど重要だということなのでしょう。すべてをご紹介することはできませんが、テモテへの第一の手紙6章7-10節には、以下のように記されています。
「私たちはこの世に生まれて来る時、何一つ持って来なかったし、この世を去る時、何一つ持って行くことはできない。衣食があればそれで十分である。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と、わなと、人を破滅に導く、愚かな様々の情欲に陥ってしまう。お金を愛することは、あらゆる悪の根源である。ある人々は、欲張ってお金を求めたために、信仰から迷い出て、ひどい苦痛をなめなければならなくなった。」
多くの教会で、お金に対してアレルギー反応がみられます。それは、親が子どもにお金について教えるのを躊躇するのと、同じレベルだと感じます。聖書がお金についてこれほど繰り返し言及しているにもかかわらず、教会では、お金についての話題には深入りしないように配慮がなされています。
それはある意味、自然なことでしょう。教会には経済的にさまざまな層の人々が所属しており、経済的に恵まれている人にも、貧困で苦しむ人にも配慮しなければならないからです。ならば、お金のことには触れず、適当にお茶を濁しておくのがいちばん楽であり無難です。