■行動による信仰告白(1)「水一杯でも」の意味
紹介文
たとえ「言葉で信仰告白」しなかった場合でも、王に服従すること、つまり「行動で信仰告白」することによって、父の望み通りにしたと認められる事例が聖書の中にたくさん出てきます。それは、言語メッセージに多くを依存する聖書解釈者の視点では、見過ごされやすい点です。
主の弟子だというので、弟子に水一杯でも飲ませる人は、その人は決して報いに漏れることはありません。
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25年前、米国で生活し始めたとき、現地の人たちと会話して頻繁に感じた感情は「煩わしさ」でした。私の英語が通じにくいという面はあったにせよ、「そこまで言葉で言わないとわからないのか」と何度も思いました。日本は「察する文化」なので、相手が何を言いたいかを想像して、表情、視線、身振り、息づかい、声質、状況、流れから、言外の思いを斟酌します。
日本では、時には説明しようとする人の言葉を「皆まで言うな」と言って遮ることすらあります。言葉にならないメッセージを「くみとる力」が評価されるのです。「以心伝心」で知れるというのが、結束や連帯の強さを表わすという場合もあります。言葉通りにしか受け取れないなら、社会的インテリジェンスが低い青二才、あるいは気を回すことができない未熟者とみなされます。
ところが、エドワード・ホールという文化人類学者によると、日本人のように言語メッセージ以外の人間関係や社会習慣に依存するタイプのコミュニケーションは世界的にも珍しいのだそうです。ドイツ人、スカンディナビア人、一部のアメリカ人のように、言語が緻密性を持ち、言語以外のものに依存しない傾向が強いタイプのコミュニケーションが常態化している文化では、何事も言葉にしないと分かりあえません。