■恥の文化の中にある福音

恥の文化に対して福音を伝えようという考えが最近注目を集めています。特にここ2、3年、栄誉と恥という観点から福音が伝えられているのをよく見かけます。前回の記事でもそのいくつかに触れました。しかし正直なところ、その多くは説得力に欠けています。

日本にいる伝道者である私は、日本人はとても現実的な人たちだと知っています。日本人が理解する福音は、日常生活に影響をもたらすものでなくてはなりません。霊的な事柄について神学的な解決が与えられても、日本人にはあまり興味のないことです。恥の文化のために、と語られる福音の多くは、「霊的なリアリティ」を語りますが、「日常のリアリティ」を語りません。

たとえば私が、差別を受けて見捨てられた地域の出身者に対して、「神様はあなたのことを恥とは思われません」と語ったとしても、彼らが自分たちは見捨てられていると思う事に変わりはないでしょう。彼らがクリスチャンになったとしても、彼らの社会的地位は変わらないでしょう。

今まで以上に人々から軽蔑されるかもしれません。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(または「彼を信じる者は恥をかかされることがない」=訳者による原稿の直訳)(ローマ人への手紙10:11)という聖句を引用したとしても、どうしたらそれを実際に体験できるでしょう?

問題は、私たちがまだこの世界に住んでいる、ということです。この世界では、私たちは他の人や他の集団と、横のつながりを持ちます。恥と栄誉は横のつながりの問題です。したがって人々との横のつながりの解決が必要なのです。