■十字架なくして栄冠なし

神が誰かを「権威を伴う活動」に就かせられる前に、試練を通されるというのは定石です。アブラハム然り、ヤコブ然り、ヨセフ然り、モーセやヨシュア、ダビデやダニエル、新約の使徒たちも例外ではありませんでした。何よりも、「道」であられるイエスさまご自身が、荒野で試練を受けた後に公生涯に入られました。

イスラエルが約束の地に入る前にも40年の荒野での訓練がありました。モーセがイスラエルの人々に向かってした説教の中に、同じパターンを見て取ることができます。申命記8章2節には、なぜイスラエルが約束の地にすぐに入ることができず、40年もの間、荒野に留まることになったのかという理由が解説されています。

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」

おそらく、主は早く荒野を通り過ぎて、カナン侵攻に移ろうと思っておられたのだと思います。しかし、メリバで、またマサで民は主を試みました。そして、目的地を探る斥候の報告を聞いたときに、全会衆は大声をあげて叫び、夜通し泣きあかし、モーセとアロンにつぶやいて言いました。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」(民数記14:2)

それを聞いて、とうとう主はモーセに言われました。「エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。」(民数記14:23-24)