■天外内における感性アプローチ(3) – 内との関係
今回は、天外内の「内」における感性アプローチについて考えます。天外内の枠組みそのものについて、ここで詳しくは説明しませんが、最初に「内」との関係について簡単にふれます(天外内トレーニングとその考え方についての詳細は「敬天愛人 – 収穫のための働き人の育成」福田充男著、地引き網出版を参照のこと)。
このシリーズの、天との関係と外との関係ですでに見てきたように、私たちはこれまで、知性を重視し、感性を軽視、もしくは度外視するようなアプローチを取ってきました。そのようなアプローチの根底には2つの考え方があると思われます。第1に、感性を霊性とは全く関係のないものとして捉える考え方、第2に、感性の方がより低次元の事柄として受け止める考え方です。感性が、知性と比べると普遍性を備えていないことが、感性の方が低次元だと考える原因と思われます。。
しかし、このような知性への偏重が、私たちの信仰の歩みを妨げ、日本の福音化を困難にしているように思います。天との関係、外との関係において、知性のみに偏らず、感性を大切にすることが、キリストの弟子としての歩みのために不可欠だと論じてきましたが、同じことが、内との関係でも言えるのです。私たちが「いのちを得、またそれを豊かに持つため」(ヨハネ10:10)、そして「あらゆる国の人々を弟子とする」(マタイ28:18)ために、知性のみならず感性に着目することが必要なのです。
・「内」の二つの面:自己との関係と神の家族との関係
「内」には、二つの面があります。
「内」のひとつの面は、自己との関係です。自己との愛の関係などと表現すると、ナルシストのように聞こえるかもしれません。主イエスは、自分を捨てるようにと教えられたのではないか、とか、自己愛は神の無条件の愛とは違って良いものではない、などと思う人がいるかもしれません。
確かに「自分のいのちを救おうと努める者は、それを失い、それを失う者はいのちを保」(ルカ17:33)つと主イエスは語られました。利己的にならないように、自己中心的な欲求に従わないで主に従うように、また、主イエスが模範を示されたように自らを犠牲にして他者を愛すように、と主イエスは教えています。
しかし、これらの教えは、自分自身をないがしろにしたり、自己卑下したりすることとは異なります。また、仏教的な自我のあらゆる欲求の滅却を意味しているわけでもありません。自己との関係とは、過去と現在に、また未来にも、一貫して主から愛を注がれ続けている自分、また、使命を与えられ、歴史上たった一人の人間として生きている自分を取り扱うことです。