■再考しましょう!

紹介文
私たちの生活は習慣によって成り立っている。主の弟子としての生活も同様だ。何か行動しようとする度に深く考えて決断しなくても、習慣化して「いつも」行うことが求められる戒めは少なくない。たとえば、イエスさまは、「昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた」(ルカ21:37)とあるように、夜にオリーブ山に行くことが、習慣化していたと考えられる。

一方、習慣化された無意識の行為に対して注意を喚起する聖書箇所も多い。たとえば、イエスさまは「祈るとき、異邦人のように同じ言葉を、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」(マタイ26:44)と注意された。本稿では、習慣化によって行動が形骸化して本質を見失ってしまうことのないように「習慣を再考する意義」について考察する。


私は海外で車の運転をすることがあるが、英国の交通システムに準じていない国々で運転するときには、必ずと言って良いほど、間違う操作がある。それは、ウィンカーで方向指示を出すときに起こることである。

同じ間違いを経験したことがある人は、「ああ、あれね」とすぐに思い当たるだろう。左右への方向指示を出す際に、誤ってワイパーをオンにしてしまう誤操作だ。どうしてそのような間違いをしてしまうのだろうか。

少々複雑な説明になるが、日本車の運転席は、前方右側座席に設置されている。いわゆる右ハンドルである。右ハンドル仕様の車の方向指示器は、ハンドルの右側にあり、右手で方向指示器を操作する。しかし、北米や欧州においては、いわゆる左ハンドルのために、方向指示器のレバーは、左側に設置されていて、左手で操作するようになっている。右側は、ワイパーのレバーなのだ。それで、左ハンドルの車で、「いつも」のように右側のレバーを操作すると、ウィンカーが点滅する代わりに、前方のワイパーが動き始めてしまう。

このような誤操作は、「習慣」がもたらしていると言っても良いだろう。方向指示器のレバーが左右反対になっていることを意識していれば、このような間違いをくり返すことはない。習慣化した行動は、いちいち考えた結果出てくるのではなく、無意識のうちにしていることだ。だから、ペットボトルや瓶の蓋を開けるときにも、何も考えずに「反時計回り」に回すことができるのだ。