■主の聖所にはいる
紹介文
詩篇73篇の記者は、「なぜ潔白な私が苦しみ、神をあざけっている者たちが栄えているのですか?」と不条理の中で叫びました。しかし彼は、聖所にはいったときに、神の近くにいること自体が自分のしあわせだと悟りました。人は聖所で神の国の視点(パラダイム)を獲得するのです。
もはや地上の聖所が存在しない現代の私たちにとっては、日々の食事の席で、主のからだと血を思い出しながら生活することが、聖所にはいることを意味しています。主は、十字架で命を投げ出すことによって、まことの聖所にはいるための新しい道を開いてくださいました。私たちは毎日その犠牲を思い出し、そのみわざを世界に語り告げ、結び合わされた神の家族と一つとなって神に仕えてまいりましょう。
—
詩篇73篇は個人的にもっとも好きな聖書箇所の一つです。ここで描かれているのは、主人公が闇から光に躍り出るドラマです。とは言え、貧しかった人が金持ちになったとか、病気が治って健康になったとか、侮辱されていた人が尊敬されるようになったなどという話ではありません。見える現実は変わらないのに、その現実を理解する「見方(=パラダイム)」が「変わった(=シフトした)」物語、つまり「パラダイムシフト」のストーリーです。
作者はまず、ありのままの正直な自分の姿について説明します。「この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである」(詩篇73:2、3)。作者のアサフはイスラエルの霊的指導者でしたが、包み隠さず自分の不安定な歩み、また悪者に対する嫉妬心について告白しました。
「一日中打たれどおしで、朝ごとに責められ」(14)ているという状況の中で、「いつまでも安らかで、富を増している」(12)悪者を見るときに、彼の心は乱れました。「なぜ潔白な私が苦しみ、神をあざけっている者たちが栄えているのですか?」と不条理の中で叫びました。「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした」(22)と、彼はその頃を振り返って書いています。