■「当たり前」を再考する

紹介文
「当たり前のことを当たり前のようにする。」このような言葉を聞いたことがあるだろう。「当たり前」と聞いても、改めて「当たり前」とは具体的に何のことだろう、と考えることはないかもしれない。私たちの信仰生活の中でも、「当たり前」のようになっていることがある。しかし、そのような「当たり前」は、神さまの御心に合致しているだろうか。神の国の視点で「当たり前」を再考することをお勧めしたい。


しばらく前のことだが、今は退職した地元の小学校の校長先生が、「みなさん、当たり前のことを当たり前にやりましょう。」と、ことあるごとに話していた。この「当たり前のことを当たり前にする」というフレーズを、読者の皆さんも一度ならず聞いたり、自分が誰かに話したりしたことがあるかもしれない。

このフレーズは、自動車やオートバイなどの製造会社である本田技研工業の創業者本田宗一郎が、自分の人生をふり返って「自分の生き方を強いて言うなら『当たり前のことを当たり前にやる』ってことかな」と言ったことから、「名言」として頻繁に使われるようになったらしい。

このフレーズを聞いてどう思うだろうか。比較的すんなりと耳に入って、「そうだ。当たり前のことは、当たり前にしなければ」と思う人が多いのではないか。しかし、改めて「当たり前のことを当たり前にする」とは、具体的に何をどのようにすることなのかと尋ねれば、その答えは様々だろう。

冒頭の校長先生は、登下校時に「おはようございます」、「さようなら」と声を出して「あいさつ」することを熱心に指導していた。だから、校長先生の「当たり前」は、毎日「あいさつ」することを含んでいたと言って良い。

本田宗一郎の「当たり前」は、何を意味していたのだろうか。「何か特別なことを大切にして、他の人がやっていないことをやってきたわけではない」、というような意味合いでこの言葉を使ったのかもしれない。駄洒落ではないが、「当たり前」のようにして「当たり前」という言葉を使ってはいるが、「当たり前」の具体的な内容については、状況や個人の意識によって異なることがあるのだ。