■地の塩、そして世の光という順番

紹介文
パウロは幻を見たことを誇る人たちを頭ごなしに否定しないで、彼らにとって親しみ深い自分の経験を分かちあいました。相手の承認や信頼を得る努力をした上で、幻を見る目的について語りました。その目的とは、いたずらに誇ったり、人を見下すことではなく、キリストの偉大さを知って、真にへりくだり、「弱いときにこそ強い」という真理を生涯にわたって経験し続けることでした。

人々の心を照らして、正しい道に導くための「世の光」として機能することが、神の民の務めなのですが、その前に、自分を捨て地に撒かれて地と同化し、土の免疫力や結実の力を媒介する「地の塩」となることが求められています。幻を見たことを誇る人たちは、いのちを得る唯一の道である「地に撒かれて自分を失う」という段階をバイパスしてしまっています。

パウロが、居丈高に論破しようとせずに、相手に寄り添って話したのは、自分を捨てる術を知っていたからだと思います。また、肉体にトゲを持つ自分にこそ神の恵みが十分に注がれていると悟ったのは、神の栄光のために自分を差し出す行為が、第三の天に引き上げられることに勝る栄誉だと知っていたからだと思うのです。