自由に宣教をすることが困難なアジアのある国を今年に入って二度訪問した。この国は仏教国として知られている。この国でキリスト教に回心した者は、死刑に処される時代もあったという。二回目の訪問で、これまでの人生のほとんどを宣教にたずさわってこられた御年八十八歳になる好々爺に出会った。この国に多くのキリスト者が生み出されることに、貢献した方だと紹介された。食欲旺盛でお元気なこの方と、食事を交えて楽しく色々な話しをする中で、小乗仏教、大乗仏教の違いこそあれ、我々と同じように仏教的な背景を持つこの国での宣教についても話し合った。その中で印象に残ったことを紹介したいと思う。
現在では死刑にならないまでも、この国で宣教の自由は確保されていない。地方では、家で集まっているところを近隣の人に知られると投石されることもあるので、扉を閉め切って密かに集まっているところも少なくないそうだ。キリスト信仰を持つ人の割合は、必然的に少ない。そんなこの国の様子を見聞きしていたので、「仏教国での宣教には、ご苦労も多いのではないですか」と投げかけると、予想外の返答が返ってきた。
「我が国が仏教的な国で良かった。」続けて、「仏教徒は、親切で礼儀正しい。不意のお客でも食事を振る舞って丁寧にもてなす」と説明された。「私は仏教徒が大好き。だから、彼らにイエスさまを知ってほしいのだ。だから、苦労なんか感じたことがない」と話してくれた。「迫害があっても神さまの助けで、宣教は進んでいる」というような答えを想像していたからだろうか、意外な返答に一瞬不意を突かれたように私は沈黙してしまったが、彼は嬉しそうにニッコリと微笑んでいた。
もちろん、国民全員が彼の言うように、親切で礼儀正しい訳ではないだろう。そのような人ばかりでないことは、八十八年の人生経験を通して彼自身がよく知っているに違いない。しかし、日本からやってきた還暦にも満たない「若造」の質問に、自国の人々への愛を分かち合ってくれた。
ちなみに、この方は太平洋戦争の際、住んでいた町に日本軍がやってきたので、家族で山中に逃げて木陰に隠れたそうだ。日本軍の兵士たちが山にもやってきて、彼が隠れていた木陰から見えるところまで迫ってきたが、兵士たちに見つからずに逃れることができたのだと話してくれた。日本軍の侵攻によって被害を受けたり、命を落としたりした方々が多い中、戦争中の話しも柔らかい物腰で語られ、私に気まずい思いをさせたり、謝罪した方が良いかなと思わせることはなかった。
キリスト信者の中には、積極的に仏教徒や僧侶たちとも関係を築いて、友人として付き合っている方々が多いと聞いた。そこには、キリスト信者になってもらいたいからというような意図的な人間関係構築や、宣教の方策として「人間関係を築いて仕えるアプローチ」を取るというような思いも考えも一切ないように感じられた。
日本だけではないが、キリスト者の間で、それも指導者と言われる方々の間で、こんな言葉を聞くことがある。「宣教のターゲット」という言葉だ。「ターゲット」とは、英語の「標的、まと」のことである。
「目標」というような意味もあるが、「宣教のターゲット」という場合には、やはり、「標的、まと」の意味合いが強いだろう。「低年齢の子どもを持つ家庭の主婦を宣教のターゲットにする」、というような使われ方だ。「宣教の標的」では、少々きつい表現なので英語をそのまま使っているのだろうか。海外からの宣教師が使っている表現を単に日本語にして使っているということかもしれない。
この言葉が使われている由来は別としても、キリスト者がこのような言葉を自分にあてて使っているのを「ターゲット」になっている人が聞いたらどう思うだろうか。自分が誰かの「ターゲット」だと聞いて、たとえそれが商売におけるマーケティングであったとしても、良い気持ちがする人はいない。的はダーツ、弓矢、銃などで射貫くものだ。だから、暗殺者が密かに殺そうと狙った人に対して、同じような言葉を用いる。
「宣教のターゲット」という言葉を使っている人が、そのような考えを持っているとは思えない。しかし、このような言葉を使う背景に、宣教に対する考えや姿勢が現れてはいないだろうか。何か勝ち負けや、当たり外れのようなものが、宣教のイメージの中にあるとするなら問題だ。
確かに私たちの人生には戦いがある。そして、「圧倒的な勝利者となる」(ローマ8:37)ことが約束されている。しかし、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの」(エペソ6:12)なのであって、決して「血肉」である人々に対する戦いではないのだ。
「ターゲット」という言葉をやり玉に上げたいのではない。このような言葉の背後に、歪んだ宣教観があるとしたら、変えられなければならないと主張したいだけだ。「強者や持っている者」が「弱者や持たない者」に対して、「上」から「下」に一方的に差し出すものが宣教観の中にあるとすれば、その宣教は歪んでいるのではないかと思う。
また、他宗教に対してライバル意識を持つような宣教観も歪んでいると言わざるを得ない。神はすべての人を分け隔てなく愛しておられるというメッセージをして、他宗教の指導者が神に愛されていないかのように、その人たちの悪口を言うのはよろしくない。
また、キリスト教に対して好意的な発言や行動を取る人を善人として扱い、他方キリスト教に反対する人々を悪人であるかのように扱うとすれば、これまた歪んだ宣教観だと言える。「マザーテレサはすばらしい」と持ち上げている人が、「カトリック信者はマリアを拝んでいるからダメだ」と切り捨てるような発言をしていたことがあったが、これも一貫性を欠いているのではないかと思う。
イエスさまは弟子たちと一緒になって、「罪人」とレッテルを貼られている人たちと仲良くされた。「取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」(マタイ9:10)それは、愛に裏付けられ、愛によって貫かれた宣教だった。
イエスさまはこう命じられた。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎むものに善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:27-28)その理由は「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深く」(ルカ6:36)なるためであって、それによって交換条件のように「イエスさまを受け入れる決心」をさせるためではないのだ。
この好々爺との会話で、もう一つ印象に残った事があった。それは、西洋の有名な説教者が、彼を訪問してきた時の話しだ。この西洋人のメッセージが素晴らしいと聞いたので、自分の友人たちを集めて西洋人に話しをしてもらったという。ところが、この西洋人は仏教国だからと思ってか、「宗教には二つある。死んだ人を崇める宗教と、よみがえった人を崇める宗教だ。死んでしまった人に従いたい人などいるだろうか」と語ったそうだ。
友人たちを集めて一緒に話しを聞いていた好々爺はそのメッセージに驚いた。なぜなら、そこに集まっていた彼の友人たちの中には、仏教徒が多くいたからだ。彼はこう言った。「あなたは、あまり話しが上手じゃないな。」すると仏教徒も含めてそこにいた人たちは、みな大笑いしたそうだ。
笑いは文化によって大きく異なるから、この話から人それぞれ異なる印象を持つことだろう。このやりとりを読んで随分と失礼なアジア人だと思う人もいるかもしれない。逆に「空気」の読めない無礼な西洋人だと思う人もいるだろう。しかし、この話で印象深かったのは、そのようなことではなく、この好々爺の立ち位置がどこにあるかということだった。
この方が仏教国と呼ばれる国で、仏教徒の友だちと一緒に、海外からの客人を迎える際の立ち位置は、仏教徒の友だちと一緒であったように思う。どちらの側に立つかなどと考えると、敵味方などと連想されてあまり良くないのだが、仏教対キリスト教という意味ではなく、仏教徒の友だちの傍らに立つ姿勢に感銘を受けたのである。
イエスさまは、「神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6-7)イエスさまは、人間の傍らに立たれた。そして、もうひとりの「助け主」を人間のために送ってくれるように執り成してくださった。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ14:16)それだけではない、「助け主」は、「いつまでもあなたがたと、ともにおられるために」(ヨハネ14:16)与えられるのだ。
果たしてわたしたち日本のキリスト者は、まだイエスさまを知らない方々をどのように見ているだろうか。自分はどこに誰と立っているだろうか。イエスさまが日本人を愛しておられるのと同じほどに、日本人に対する自分の愛は深まっているだろうか。イエスさまが愛してやまない方々の傍らに、自分はイエスさまと一緒に立っているだろうか。もう一度、宣教にたずさわる私たちの姿勢を再考したい。
TAKESHI
【RAC通信】 – 2019.08.06号 TAKESHI