■植民地主義的宣教に対する反省(6)― HIROKOの場合(3)

紹介文
キリスト教会の植民地主義的宣教を通してイエスさまと出会い、成長してきた私は、一生懸命その植民地主義的宣教の文化を学び、実践してきた。それがイエスさまを喜ばせることであり、イエスさまに仕えることだと本気で思っていた。

しかし私は、その中で深刻な間違いを犯してきた。それは、イエスさまが私の中に生き、あらゆることを教えてくださっているのに、どこかでそれは十分ではないと思い込みその声に聞き従うのではなく、特定の他の人たちに語られたことを優先してしまったことである。

神さまは私に、また私の国日本の教会に、託したいことが他にあったはずだと思う。それを理解して、神さまから託されたことを実行する歩みをしていくときに、私も、日本の教会も健全に自立して、御国の発展に大いに貢献することができるのではないだろうか。


初めて海外に宣教師として赴くことになったとき、牧師から不思議なことを言われた。「HIROKOさん、他の宣教師から同等に見られませんよ。その覚悟はできていますか。」そんなことは、クリスチャンの世界ではあるわけがないと、その時は思っていた。しかし、それから約15年宣教の働きに携わり、その牧師はやっぱり正しかったと思う。

おそらくほとんどの宣教師は認めたがらないだろうが、キリスト教宣教の世界には、「階級」がしっかりと存在する。多数の宣教師を受け入れているいわゆる宣教後進国の宣教師が、多数の宣教師を送り出しているいわゆる宣教先進国の宣教師に、「教えてください」という態度を見せている限り、その階級が意識されることはあまりない。

私は日本や、外国の国々で、その階級が存在することを実感したことが何度もある。以前勤めていた宣教団体で、私はカナダから来たある女性宣教師に対して指導的立場に置かれることになった。指導的立場と言っても、みんな兄弟姉妹であり、同労者であることに変わりはなく、働きの効率のために設けられた体制であって、誰が上で誰が下という問題ではないと、私自身は理解していた。