■自己訴追は神に対する侮辱

紹介文
全被造物の中で人だけが、三位一体の神ご自身と、そこにある「永遠の愛の交わり」というイメージを、世界に対して映し出す存在として造られました。また、創造主であられる神と交わる特権を持っていました。人は創造の冠であり、すでに「神のような者」でした。エバが蛇の誘惑に屈した原因の一つは、自分の立場を思い出せなかった点だと思います。

エバの轍を踏まないで、自分が「選ばれた種族」であり、「王である祭司」だという立場を自覚しましょう。そのことで、神のみわざを宣べ伝えることができます。神の作品である自分の悪口を言う者は、神を侮辱しています。「高価で尊い」と声をかけてくださる神の言葉を喜んで受け入れ、神を賛美しながら、毎日を過ごしてまいりましょう。


・自分が誰かを思い出せ(just remember who you are!)

創世記第3章には、人間が神の指示を無視して罪を犯し、エデンから追い出されて地を彷徨うようになった経緯が記されています。なぜ人間は蛇の誘惑に屈してしまったのでしょうか。その一つの理由は、「自分が誰なのかを忘れてしまった」からだと私は考えています。

女が誘惑者に会う前は、まさか神に逆らってまで、園の中央にある木の実を食べるつもりはなかったと思います。ところが、蛇の次の言葉によって心が揺れました。蛇はまず、「あなたがたは決して死にません」と断言しました。その上で、「神のようになりたい」という女の欲を掻き立てました。

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)神は知識を独占する狭量な方だという、根も葉もない嘘を織り交ぜて、「神のようになる」ことがどのように良いことかをイメージさせるように誘いました。

女がその木を見たときに、「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)と記されています。禁止されたことをしたくなるという罪の原理が働きました。また、それと同時に、神のように賢くなるとどんなに良いかと、女があらぬ想像をしたことが伺えます。

このときもし、女が、木の実を食べた後の状態を、拠り所なく空想したりしないで、神の戒めを思い出していたならば、その後の展開はまったく異なるコースを辿ったことでしょう。「何を思い出すか」が重要なのですが、もう一つ思い出すべきことがありました。それは、自分がすでに「神のような者にされていた」という事実でした。

・創造の冠として造られたアダム(crown of creation)

アダムは神にとって、他の被造物とは異なる特別の存在でした。父・子・御霊の三位一体の神ご自身と、そこにある「永遠の愛の交わり」というイメージを、世界に対して映し出す存在として人は造られました。また、ただ人だけが、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。創造主であられる神と人格的に交わる特権を持つ「生きたもの」とされたのです。

そのアダムに、神は地に満ちて被造世界を支配する権威を与えられました。それは、どのような支配なのでしょうか。エデンの園に置かれたアダムが、園を耕し守るようにと命じられたことから推測することができます。耕すのは食物を得るためではなく、人が被造物に向き合って、被造物が創造主の目的と設計に添って生い育ち、実を結び、増え広がるようになるためでした。このように、他者が使命を果たすことができるように仕えて、成長を促進することが支配の内容でした。

創造性を輝かせながら、耕し守るという支配の営みに、人は、神から与えられた権威によって取り組むことができました。その権威のあかしは命名でした。名前には、性質や特徴が表われています。罪を犯す前の人間は、ふさわしい名前をつけることで、その生き物を他と区別し、認識し、管理して、支配しました。

堕罪前のアダムが持っていた能力は、神のかたちに似せられた者として、神のイメージを反映させることによって示された能力でした。しかし人は、高ぶって神と並ぶ者になろうとしたことで、その能力を喪失してしまいました。神に従い、神に仕えることを抜きにしては、人間は塵同然です。権威行使の条件は従順だからです。

御子イエスさまは、このアダムが喪失した立場を、ご自身に従う者たちのために回復し、さらにいのちの木への道を開くために、時至って、人として生まれてくださいました。そして、十字架に死なれ、「回る炎の剣」(創世記3:24)にかかって、全人類の罪を清算してくださいました。(いばらとあざみのとげから身を守るために神がアダムとエバに与えられた皮の衣は、「いのちの代価である血が流されることで罪が覆われる」という将来の救いを予表しています。)

これは、回復された現在の私たちの立場ですが、女が蛇と会った時点では、まだ堕罪前だったので、人間の特権的な立場と能力をまだ保有していました。それなのに、女は、自分が誰なのかを思い出すことができずに、「神のようになりたい」と思ってしまったのです。

蛇の戦略は、真実と嘘をミックスして人を誤導することでした。「人が善悪を知るなら、神のようになる」というステートメント自体は正しいのですが、創造主への従順を抜きにして神に並び立つことは、被造物としての分を超えることでした。しかし一方、アダムとエバは、生を受けたそのときから「神のような者」だったのです。被造物の中で唯一、神と交わる特権と地を支配する使命及び能力を持っていました。

・選ばれた種族、王である祭司(a chosen people, a royal priesthood)

今も敵は、真実と嘘を混合して攻撃してきます。そのような攻撃から、生きている限りは逃れることはできません。なぜなら、霊的な戦いの現場は、私たちの心の中だからです。神から与えられた志を明確にし、御霊によって善悪を見分ける感覚を訓練していただき、植え付けられた聖書の言葉に立って、ミッションを遂行し続けるためには、自分が誰かを自覚することが必須となります。この自覚がない人は、武具なしで戦場に行く人のようなものです。

敵について知っておくべきことがいくつかあります。その一つは、彼が語る事柄自体は正しい場合があるということです。問題はその発言の源流というか、元々の動機が悪だという点です。言葉ではなく源が偽りなのです。彼の武器は欺きと訴追です。神が正しいとされた者たちの言動をあげつらうことで、人を落胆させ、人が神から賜った使命を果たすことができないように、諦めさせることが主たる戦略です。

神が私たちを「正しい」と認定されたのは、神が御子の犠牲を通して示された救いの道を認め、神が用意された「正しい関係」の中に入ったからです。イエスさまのように思索し、語り、行動するプロセスは、回心後すぐに始まりますが、それが完成するのは生涯を終えるときです。成長途中の段階では、罪を犯すこともあれば、勘違いすることもあります。未熟ゆえの失敗もあります。敵が言い立てるのはこの部分です。

罪を犯したことが分かれば告白すればよいのです。胸を叩く気持ちになっても、それをするのは一回にして、後はその手を上に上げて、罪を赦してくださったあわれみ深い神を賛美しましょう。そして、そのように創造主と会話する関係に置かれている事実と、地を支配する使命を遂行するための立場と能力(と助けあう仲間の交わり)を与えられていることを喜びましょう。

ペテロの第一の手紙2章9節に、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と記されています。神から賜った並外れた立場を自覚することで、神のみわざを宣べ伝えるというミッションを果たすことができます。

・自分の悪口を言わない(Don’t blame yourself)

自分を裁くのは自分ではありません。すべてを裁く神は、あなたがすでに「神の子」(参照:第1ヨハネ3:1)であり、「信仰による神の義」(ローマ3:22)を与えられた者であり、「キリストをその身に着た」(ガラテヤ3:27)者だと宣言してくださいました。

それが神の裁定なのに、敵は「造り主のかたちに似せられて、ますます新しくされ」(コロサイ3:10)る途上の未熟さを並べ立てて、様々な悪口を言います。彼は自分の立場が非合法なのにもかかわらず、厚かましくも訴追人として立ち回り、神の民を告発します。しかし、幸いなことに、私たちの側には弁護人が立てられています。「御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」(ローマ8:27)と記されている通りです。

御霊は「イエスさまの出来事」によってすでに下された「父の最終的な裁定」を思い出させてくださいます。それゆえ、霊的な戦場である私の心には二つの声が響きます、訴追人のそれと弁護人のそれです。そのどちらの声を受け入れるか、というのが私たちの戦いです。偽りの父に聞くか、真実の父に聞くかの二択です。真実の父に聞いて、父のご判断が正しいと告白し、感謝して使命遂行のコースに戻るときに、ますます父の御真実を経験するようになります。

ところが、偽りの父に聞いて、その言葉を復唱し、自分を責めるようになると、賜物を活用して神の資産を増やすことができなくなります(参照: マタイ25章のタラントのたとえ)。そればかりか、敵の声を聞くことで霊的な姦淫を犯してしまいます。神が与えられた言葉と立場を喜んで受け入れて、その他の声を無視するというのが正しい態度です。それをしないとエバの轍を踏むことになります。

パウロが自分のことを、「罪人のかしら」(第1テモテ1:15)とか、「すべての聖徒のうちで一番小さな私」(エペソ3:8)などと自己紹介したことを取り上げて、「自分を責めるゲーム」を継続している人に出会うことがあります。けれども、自己憐憫に苛まれているような人が、「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました」(第1コリント15:10)などと言うでしょうか?

自分の悪口を言うことは、作者である神の悪口を言うことと同じです。印象派の画家であるエドガー・ドガは、多くのデッサンやスケッチを残していますが、それらの絵を見て、書きかけで未完成だとか、未熟で大したことはない、などと言って小馬鹿にする人はいません。著者の偉大さを知っているからです。絵の評価は、すなわち作者の評価なのです。

だから、神の作品である自分の悪口を言う者は、神を侮辱しているのです。「高価で尊い」(イザヤ43:4)と声をかけてくださる神の言葉を喜んで受け入れ、神を賛美しながら、毎日を過ごしてまいりましょう。

福田充男

RAC通信】 – 2019.11.05号  福田充男