■弟子育成の現場から

紹介文
「神さまはあなたに何と仰っていますか?」「あなたは神さまと、どんな決断をしようとしていますか?」これが、私がいつも弟子育成の現場でする質問だ。

神さまは、私たちをご自身との「人格的な交わり」に招いてくださっている。その招きに応じて、日々、神さまとともに歩んで行きたいと私は思う。神さまに贖っていただいた人生には彩りがあり、それは挑戦と喜びに満ちている。本稿では神さまと時を過ごすことが、私たちにとって、如何に必要不可欠なものであるかについて共に考えたい。


私は祖父の代から数えて三世代目のクリスチャンだ。幼少期は福音派の教会で育ち、個人的に福音と出会ってからは聖霊派の神学校で学びを深めた。神さまから受け取っているヴィジョンは、中国を中心とするアジア、ロシア、東ヨーロッパで神の国の訪れを見ることで、私の心からは片時もその画が離れない。もちろんそこに日本も入っている。「Back to Jerusalem」の道のりには、私たち日本人の果たす役割が必ずあると信じている。

現在は、フィリピンのセブ島で現地団体とともに三つの地域で青空教室を運営し、子どもたちの教育支援や歯科衛生の啓蒙活動を行っている。日本では二つの法人経営に携わり、各々の分野で神の国の広がりを見させていただいている。「ルカ10章2節後半」の祈りが日課で、既にある社会の枠組みの中で福音が表現され、社会全体が神さまの本来のデザインに回復されることを祈りながら、キリストの弟子の育成に努めている。

私が福音を信じたのは高校に入学した頃だ。それ以来教会の奉仕に熱心になり、日々まるでエマオに向かう途上の弟子のように、内に燃えるものを繰り返し確認するという何とも贅沢な時間を過ごさせていただいた。

どの集会でも、その最後には不思議なことにいつも神様から同じことを語られたのを覚えている。「さあ、家に帰ってわたしと一対一で語り合おう。」それが、私が神さまとの温かい人格的な交わりの中に導き入れられていく始まりだった。

そのイエスさまの声は、直接聞いたのか、心に響いたのかはわからないが、その度に自宅に戻って聖書を読み、自分の心の内にある思いを神さまに申し上げ、静思の時を持ったことは懐かしい思い出だ

冒頭で「神さまに贖っていただいた人生には彩りがあり、それは挑戦と喜びに満ちている」と述べたが、その裏側では必ずと言ってよいほど、聖書に記された信仰の先輩たちが通ったような困難や試練を経験する。それは私たちがキリストの弟子として育てられるために不可欠なプロセスであり、与えられた召しに歩むためには避けては通れないものである。私自身も、これまで主とともに歩んできた道のりは困難や試練の連続であったように思う。あの試練のとき、暗闇の真っただ中で孤立無援だと感じたとき、神さまとテーブルを 挟んで向かい合い、本音の交わりをさせていただいたからこそ、今数え切れないほどの素晴らしい出会いと祝福を経験しているのだと思う。その都度もう駄目かもしれない、と弱音を吐きながらも、何とかして神さまのもとに這って出て、一歩、また一歩と、神さまと 共に二人三脚で歩んできて、そして今の自分がある。

皆さんはこれまで困難や試練に遭遇したとき、どのようにそれらに対処し、前へ進んで来られただろうか。誤解を恐れずに言うのだが、私は自分が関わった弟子育成の現場で、そうした状況に遭遇しておられる当事者が、果たしてそれについて神さまと対話されているだろうか、と感じるような場面をしばしば経験した。多くの場合、順調なときは神さまと対話ができるのだが、逆境のときは神さまから遠のいてしまうのである。この心境は私も大いに共感できるところだが、それでもやはり、本当に神さまを必要とするときは逆境のときであることは間違いのないことだ。

「神さまはあなたに何と仰っていますか?」「あなたは神さまと、どんな決断をしようとしていますか?」繰り返すが、私が弟子育成の現場でする質問はいつも「これ」だ。

正直なところ、目の前の相手につい助けの手を差し伸べたくなる自分がいるが、実際は 「これ」以上でも「これ」以下でもない。そして、私が自分自身に毎日のように問いかける質問も同様で、それは「神さまは自分に何と仰っているか」「自分は神さまと、どのような決断をしようとしているか」の二点に尽きる。

私たちクリスチャンの多くは、毎週礼拝の時間を持ち、祈り、聖書の言葉を聞く。ところが実生活では、困難や試練に直面したとき、真剣勝負で神と向き合い、神に聞き、神とともに行動指針を決断するというプロセスを通ることよりもむしろ、他者から一時的な励ましや助言を受けることでその場を切り抜けようとすることを選ぶ「傾向」はないだろうか。乗り越えねばならない困難や試練に直面したとき、信頼できる他者からの励ましや助言は大変有難く勇気づけられるもので、私たちの内面が建て上げられ、成熟していく過程において時には必要な要素の一つである。しかしその一方で、イエスさまと初代教会の信仰者 たちの歩みを観察するときに私たちが確認できるのは、そのようなときにこそ父なる神に 祈り、とことん神と対話し、神とともに困難や試練にどう立ち向かうかを決断する姿ではないだろうか。

聖書には、イエスさまが一人で父と過ごされた場面が度々記録されている。イエスさまは、ご自分が群衆から歓迎されているときも、そうでないときも、そしてただ一人苦難の中におられるときも、いつも同じだった。

「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」(マタイの福音書14:32)「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」(ルカの福音書5:16)「イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』」(マタイ26:42)

このように日常的に天の父との「不断の交わり」をしていたイエスさまも、しばしば、人生の重要な局面に立ち至ったときには、人気のない場所でただ一人、天の父と差し向かいで語り合い、ご自分の為にすべきことを決断されていたのである。

私の妻は教育者で、中・高・大学試験のプロフェッショナルである。受験勉強を経験した人は「傾向と対策」という言葉になじみがあると思うが、試験をクリアするには、今の自分の陥りやすい弱点はどこで、改善に何が必要かという「傾向」がわかればそれについての「対策」が可能である。

その「対策」が有効であることさえ分かれば、その「対策」が自分の好みに合うか否かを問う者はまずいない。そしてそのままその「対策」を実行した者が結果を見ることができる。 それと同様に、もし私たちが目の前にある試練や課題を乗り越えたいと本当に願っているのなら、自分がその「対策」を好むかどうかはあまり関係のないことである。最も大切なのは、それを実行することだ。

もし、読者の中で、乗り越えるべき試練や困難に直面した際、自ら神と向き合い、祈りの中で神の導きを得、決断するというプロセスを避けて通る「傾向」がある、と心に思い当たる方がおられるならば、イエスさまご自身が模範を示してくださったこの「対策」に取り組んでみられてはどうだろうか。

私は2001年からある行動を習慣にしている。今から18年前の夏、現在の天外内トレーニングの前身であるカタリストトレーニング(Catalyst=触媒、変化を促す人やもの)に参加する機会に恵まれた。

神学校を卒業し、宣教の現場に出ていた私は、現在のミニストリーの基礎となるライフスタイルを、そのトレーニングで共に学んだ一人ひとりから教わった。それ以来、自分のライフスタイルを形成している重要な要素の一つが「リトリート」という習慣であり、私は月に一度、夫婦でそのような時間を過ごしている。

私が行う「リトリート」のステップは3つある。

第一に時間と場所を確保することだ。半日取れる人は半日、1日取れる人は1日、2~3日取れる人はそれも良いだろう。私の場合、以前は祈祷院と呼ばれるキリスト教関係の施設を使っていたが、現在は仕事柄出張が多いため、国内外に展開する同じ系列の宿泊施設を利用するようにしている。手頃な価格で部屋を確保できる今流行りの「Airbnb」を利用するのも良いだろう。

二つ目のステップは、その時自分の心にあるものを神様との対話のテーブルに全て出すことだ。過去数ヶ月を振り返り、どのような神の恵みがあったかを思い巡らす。感謝すべきことは勿論、何に悩み、葛藤し、悲しみ、戸惑い、不安を感じているかもすべて神の前にさらけ出すのだ。私はこれらを文字にしている。振り返ると、神さまとともに歩んだ足跡を確認することができる。

最後に行うことは静思の時間を持ち、神さまとともに決断することである。これからの一ヶ月にどのような行動を起こすのか。前へ進むのか。立ち止まって待つのか。右に曲がるのか。引き返すのか。神さまと語らいながら、聞いたことを今日、あるいは明日から始めることができる具体的行動に落とし込む作業は、私たちが的を射たゴールに向かうために必要不可欠なステップであり、実に充実した時間になるだろう。

普段から神さまとの語らいの素晴らしさを味わっている人は、益々そこに留まり、神の国の実を結び続けてほしい。そして、これから神さまとの語らいの習慣を構築していこうとされている人は、年内にそのような機会を設けてみるのはいかがだろうか。

神さまに贖っていただいた人生には彩りがあり、それは挑戦と喜びに満ちている。神さまと時を過ごし、ともに歩くことによってのみ、私たちは神の国の実を結ぶことができるのだと私は思う。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネの福音書15:5)

YUJI

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