■寝る子は育つ

紹介文
近年、睡眠についての研究が盛んになり、メディアでも睡眠について取り上げられることが多くなった。私たち日本人は、儒教的な勤勉さを大切にする文化背景を持っているために、眠ることに対してそれほど積極的なイメージを持っていないように思われる。睡眠について神の国の視点で改めて考えてみたい。


日本人は世界で最も睡眠時間の短い国民と言われている。経済協力開発機構(OECD)の統計によると、一日あたり平均睡眠時間が参加36カ国中最も短い。この統計によれば、日本人の平均睡眠時間は、442分(7時間22分)である。この数字を見てどう思うだろうか。他の人たちは、そんなに長く眠っているのか、と思う人がいるかもしれない。ちなみに、中国は542分(9時間2分)、アメリカは528分(8時間48分)となっている。

日本では厚生労働省が、平均睡眠時間の年代、性別の統計を取っている。これによれば、40~50代の男女は、共に半数近くが5時間以上6時間未満、6時間以上7時間未満を含めると、8割以上になる。国民平均では、7時間22分になっていても、働き盛りの年代では、男女ともに7時間未満の平均睡眠時間である。読者のみなさんにとっては、こちらの方が納得しやすい数字かもしれない。

日本人は世界一勤勉なのだから、睡眠時間も短いのだ、と胸を張っている場合ではないだろう。近年睡眠についての研究が進んで、睡眠の機能、睡眠時間の確保、質の高い睡眠の重要度などメディアなどでも取り上げられている。

必要な睡眠が確保されずに、慢性的な睡眠不足になると体や心の健康を損なう確率が高くなることが分かってきている。そんなことから、睡眠不足を借金に見立てて、「睡眠負債」という言葉もある。積み重なる借金が経済を破綻させるように、積み重なる睡眠不足が健康を阻害するからだ。

必要な睡眠時間には個人差があって、6時間未満の睡眠で十分な人もいれば、9時間以上眠らないと日常生活がままならない人もいるようだ。ナポレオンや100歳を超えて現役だった日野原重明などは、短時間睡眠者(ショートスリーパー)として知られている。他方、アインシュタインは、10時間以上眠らないと通常の生活さえできなくなってしまう長時間睡眠者(ロングスリーパー)だったようだ。しかし、これらの二者は両極端であって、8割~9割の人たちは、6時間以上~10時間未満の睡眠時間を必要としている。そして、自分に必要な睡眠時間は、生まれながら決まっていて習慣や環境によって変わることはないらしい。

様々な研究によれば、自分にとって必要な睡眠時間をただ確保すれば良いということではない。質の高い睡眠を確保することも重要なのだ。人は眠っている間、レム睡眠(浅い眠り)とノンレム睡眠(深い眠り)を複数回くり返すことが知られている。夢を見るのは、脳が活動しているレム睡眠の最中で、体は休んでいるが脳が働いている状態である。起きている間にインプットした様々な情報を整理して、長期記憶に置き換える作業もレム睡眠の最中に起こる。

逆に、ノンレム睡眠の時には脳が休み、筋肉は動いているので、寝返りをうったりする状態になる。この脳を休めるノンレム睡眠を、眠り始めてから最初の約3時間で十分深く取れるかどうかが、睡眠の質を決定づける要因になるそうだ。最近の出回っている睡眠アプリは、このような原理を使って睡眠の質を数値化している。

必要な睡眠が得られないと、どうなるのか? 日本睡眠学会は、睡眠不足が仕事の生産性に影響して約3兆円の経済損失をもたらしていると試算している。睡眠不足からくる体調不調や事故による医療費まで含めると約5兆円規模の損失が生じているという。

米国のあるシンクタンクによれば、睡眠不足による日本経済の損失は約15兆円と試算され、GDP比約3%が睡眠不足による生産性低下や働き手の病欠などで失われているという。世界一睡眠時間の短い日本人の生産性が、OECD加盟36カ国中20位と下位にあるのは、睡眠不足がその主な原因ではないのだろうかと疑いたくなる。その関連性はともあれ、質と量において十分な睡眠が取れているか問うてみる価値はありそうだ。

儒教的な日本文化の背景を受けているせいか、私たちは眠ることに対して否定的な印象を持っているように思う。寝る時間を惜しんで勉強や仕事をすれば、何のためだったのか、どれほどの成果をもたらすことができたのかは問われず、寝ないで努力したことがほめられるといったことも多々起こる。ある目的のために犠牲を払うことが、悪いとか価値のないことだと言うつもりはない。しかし、睡眠不足で力を発揮できなくなっているとすれば本末転倒と言わざるを得ない。

聖書は睡眠について何と言っているだろう。聖書の中で最初に眠りが登場するのは、天地創造である。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)神さまのかたちにつくられた男と女の創造のプロセスに眠りが登場する。「神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。」(創世記2:21)それが、レム睡眠か、それともノンレム睡眠だったのかは知るよしもないが、アダムの眠る間に神さまの創造の業がなされている。これは、アダムが自分の意思で横になって眠っている間に、神さまがこっそりと働かれたのではない。神さまの特別な介入があって、下された深い眠りだった。

夢を見るのはレム睡眠の最中であることが分かっているが、神さまはこの夢を用いて人々に語られることが多い。アブラハムの失敗とも言えるエピソードの中でも、神さまは夢を用いられた。アブラハムが自分を守るために、「自分の妻のサラのことを、『これは私の妹です』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやってサラを召し入れた。ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。」(創世記20:2-3)神さまは、召し入れたサラに触れることなく、その夫アブラハムに返すように夢の中で命じられたのである。

アブラハムの孫、ヤコブも旅の途中、「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はそのところの石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。」(創世記28:11)石を枕によく眠れるものだと思うが、「そのうちに、彼は夢を見た。」(創世記28:12)

その夢の中で、ヤコブに子孫が多く与えられること、全ての民族が祝福されること、神さまが一緒にいてくださること、守られることなどを神さまは語られた(参照:創世記28:14-15)。ヤコブは、「眠りからさめて、『まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった。』と言った。」(創世記28:16)

神さまが夢に直接現れたのではないが、ヨセフも自分と兄弟たちの将来を示唆する夢を見た。その夢を兄たちに告げた結果、「あの夢見る者」(創世記37:19)と憎まれてエジプトに売られてしまうことになった。(参照:創世記37章)

ヨセフは夢の意味を理解するためには、神さまから教えて頂く必要があると考えていたようだ。エジプトの牢獄の中で夢を見たが、その意味を理解できなくていらいらしていた二人の家来に、「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか」(創世記40:8)と言った。その後、パロが見た夢についても問われると、「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」(創世記41:16)と神さまが夢を通して語られていることを明確にした。

夢を見ている状態であるレム睡眠のことでわかっていることが二つある。睡眠時間の20%~25%を占めるレム睡眠の最中に、その日のうちにインプットした情報を整理して、長期記憶へと置き換える作業も行われていること。そして、情報量の多い日には、レム睡眠が相対的に長くなることである。体は寝ていても脳が覚醒状態にある最中に、神さまは夢の中でご自身を現して直接指示を与えられることもあれば、見た夢の意味の解き明かしを他者によって与えられることもあるのだ。

これまで見てきただけでも、「眠ることは単なる生理現象であって霊的なこととは関係がない」とは言えないだろう。そればかりか、睡眠は祝福であり、また同時に信仰の姿勢であることを聖書は教えている。

床に入ってすぐに眠りにつくことができるのは、主の平安が与えられているからだということを、ダビデは詩編の中で歌っている。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)神さまの与える知恵を大切にする人は、「横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは、ここちよい」(箴言3:24)とも言われている。

心安らかに、快眠を得ることができるのは、神さまが「まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121:4)からである。そして、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えて下さる」(詩篇127:2)のだ。ここでいう「このように」とは、直前に記されている「建てる」、「守る」、「食べる」ことと考えられる。私たちの生活が主によって成り立っていることを信頼しているからこそ、安眠することができると聖書は語っているのだ。

イエスさまが嵐の中で眠っておられた記事からも、眠ることが神さまに委ねる信仰を現していることがうかがえる。その時イエスさまは、神の国をたとえて、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どうのようにしてか、人は知りません」(マルコ4:26-27)と話されていた。また、神の国の拡大は人の理解を超えていること、人の果たす役割があると同時に神の業であること、神の国は成長することなどを示された。

このようなたとえを話された「その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸に渡ろう』と言われた。」(マルコ4:35)舟はイエスさまを乗せて沖に出ると、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。」(マルコ4:37)弟子たちは「おぼれて死にそう」(マルコ4:38)な思いをしている最中に、イエスさまは、「とものほうで、枕をして眠っておられた」(マルコ4:38)のだ。風をしかりつけて静めた後に、イエスさまは「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」(マルコ4:40)と問いかけられた。信仰をもっていたので、イエスさまは怖がらずに眠ることができたのだと諭しておられるかのようだ。

一方で、眠りが人間的な弱さを表していることもある。ゲッセマネの園では、「悲しみのあまり死ぬほど」(マタイ26:38)の思いでイエスさまが祈っておられると、弟子たちは眠ってしまった。そんな弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」とイエスさまは、教えられたのである。

この時、弟子たちは「悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた」(ルカ22:45)のだった。たとえ燃えるような信仰をもっていても、私たちの肉体には弱さがあるのだ。ここでの眠りは、祝福や信仰の姿勢としての睡眠とは異なり、自分自身の力により頼んで頑張っても、信仰を全うすることはできないことを教えてくれる。私たちは自分の限界や弱さを自覚する必要があるのだ。

より多くの時間を費やし、より多くのエネルギーをつぎ込み、より熱心に行動することで、より良い結果を得られるということも確かにあるかもしれない。しかし私たちは、「神さまに命じられてもいないことをもっとする」ことで、より良い結果を得ようとしてしまってはいないだろうか。時には、眠る間にも働いてくださる神さまに委ねて、安らかに眠ることが、最もみこころにかなっているということがあるのだ。

ある神学者はこう言った。「最も重要な霊的活動の一つは、十分な睡眠をとることである。」

「寝る子は育つ」と昔から言われているが、霊的な成長面からも同じことが言えるかもしれない。

TAKESHI

RAC通信】 – 2019.10.01号  TAKESHI