■「紀元一世紀の教会出席」を通して紀元二十一世紀の教会を考える(2)

紹介文
現在ほど変化の速い時代はない、と言われています。そのスピードは、減速するどころか、様々な技術の進歩によって刻々と加速しています。それらの変化に対する善し悪しの判断や、変化への対応の仕方に違いこそあれ、私たちはみな変化に対応せざるをえません。

私たち日本人にとって2019年は、元号が変わるという変化にも対応する年になります。「平成」という時代に色々な意味で区切りをつけ、新しい時代に入っていくという変化です。これらの変化は、私たちキリスト者の生活にも否応なく訪れています。加速度的変化の中でどのように、永遠に変わることのない神さまを愛し、私たちと同じように変化のただ中にある隣人を愛するように、私たちは召されているのでしょうか。

変化への対応は、本質的な事柄を考える機会でもあると言えます。何を、なぜ、どのように、変えるのか、そして変えないのか、それらを考えることが、私たちの思いを本質的な事柄に向かわせます。そのような意味において、今ほど信仰の本質を考える絶好の機会はないでしょう。

このシリーズでは、約2000年前の教会出席を描いた小冊子「紀元一世紀の教会出席」(RACネットワークサイトにて無料公開中)から、教会の本質を再考し、現在の日本の教会に対する示唆を得たいと思います。


前回は、「紀元一世紀の教会出席」の著者であるロバート・バンクスと、このストーリーの舞台となっている教会の指導者であるアクラとプリスキラについて簡単に紹介し、この小冊子を通して、私たちが何を得ることができるかについて考えました。

著者ロバート・バンクスは、この小冊子のタイトルを「紀元一世紀の教会出席(原語では“Going to Church in the First Century”)」としました。ところが、物語の中には「教会(Church)」という言葉が一度も使われていません。もしタイトルを知らないまま、この物語を読んでしまったら、この物語が紀元一世紀の「教会」を描写したものだとは、だれも思わないのではないでしょうか。

キリスト信仰を持たないローマ人から見た紀元一世紀のキリスト者の印象を綴った物語ではあっても、「教会」のあり方について取り扱っている本には思えません。それは、二十一世紀に生きる私たちの「教会」に対する理解やイメージが、一世紀のそれとは異なっているためではないかと思います。だからといって、一世紀の教会観や理解が間違っている、または未熟だったのだ、と短絡的に結論づけたり、逆に今日の教会のあり方を全面的に否定したりすべきではないでしょう。