■Bとの旅路-知的障がいがある息子を通して学んでいること (4)いやしについて

紹介文
知的障がいのある息子Bとの歩みの中で学んできたことを紹介して4回目となる今号では、いやしについて分かち合う。Bと歩み始めるまでも、いやしを求める祈りは積極的にしてきた。だが、あまりにも多くの精神的また身体的な課題がいつまで経っても減らないBと関わる中で、「いやし」という結果だけでなく、そこに至る過程の中で神さまが私に教え、私のうちに成し遂げようとしておられることに目を向けるようになった。

しかしここで学んだことは、いやしだけに留まらず、祈り全般にも当てはまる。この記事をきっかけに、読者の皆さんが日頃から祈り求めていることにおいて、新たな観点から神さまと交わる機会になることを期待する。


神さまによるいやしに関しては、様々なアプローチを見てきた。神さまと歩んでいる人の中には、いやしを否定する人はおそらくいないであろう。しかし、いやしてくださいと祈りながら、本当はあまりいやしを期待していない人たちもいるし、また、神さまはすべての病をいやすと信じている人たちもいる。

私自身は、神さまはどんな病でもいやすことができると信じている。そして大胆にいやしをお願いできることが、神さまと歩む者の特権であると考えている。私が一時属していた教会では、いやしのミニストリーが積極的に行われていた。そこに集う者は、頻繁に、そして積極的に互いのいやしのために祈った。いわゆる「いやしの賜物」のある特別な人物がいなくても、そこにいる者が互いのいやしのために祈り合うときに神さまが働いてくださる、という考えに私は非常に共感した。

その群れを離れてからも、積極的にいやしを祈る姿勢は続き、世界の各地で、いやしを求める人たちと共に祈ってきた。そして祈りの答えが見つからないときには共に泣き、祈りが答えられたときには共に喜んできた。そのような祈りの共同体は、仲間がどんどん増えていくのである。

だが、Bに関しては状況が違う。Bが抱える、精神的また身体的課題に向き合っていく中で、ある時点からそれがとても孤独な歩みであるということに気づいた。なぜなのかは、未だにはっきりとは分かっていない。Bの課題には終わりがなく、それをあえて誰かに分かち合うことに、疲れてしまっている自分がいるのかもしれない。また気がつくと、Bに関する悩みの話ばかりになってしまうのではないかと心配で、遠慮してしまうのかもしれない。または、人の「アドバイス」が聞きたくなくて、人に話すのを躊躇してしまうのかもしれない。