■「紀元一世紀の教会出席」を通して紀元二十一世紀の教会を考える(5)

紹介文
現在ほど変化の速い時代はない、と言われています。そのスピードは、減速するどころか、様々な技術の進歩によって刻々と加速しています。それらの変化に対する善し悪しの判断や、変化への対応の仕方に違いこそあれ、私たちはみな変化に対応せざるをえません。

私たち日本人にとって2019年は、元号が変わるという変化にも対応する年です。「平成」という時代に色々な意味で区切りをつけ、新しい「令和」という時代に入りました。これらの様々な変化は、私たちキリスト者の生活にも否応なく訪れています。加速度的変化の中でどのように、永遠に変わることのない神さまを愛し、私たちと同じように変化のただ中にある隣人を愛するように、私たちは召されているのでしょうか。

変化への対応は、本質的な事柄を考える機会でもあると言えます。何を、なぜ、どのように、変えるのか、そして変えないのか、それらを考えることが、私たちの思いを本質的な事柄に向かわせます。そのような意味において、今ほど信仰の本質を考える絶好の機会はないでしょう。

このシリーズでは、約2000年前の教会出席を描いた小冊子「紀元一世紀の教会出席」教会の本質を再考し、現在の日本の教会に対する示唆を得たいと思います。


シリーズ第4番目の前回(2019.07.16号【有料版】第200号)は、食事を介した集まりの「性格」から、「教会」について考えました。今回は「礼拝式」について、「紀元一世紀の教会出席」に描写されている「夕食会」を観察しながら、考えてみたいと思います。

この記事を読んでいる読者のみなさんの大多数は、毎週日曜日にある場所に集まって「礼拝式」と呼ばれる「式」に参加されていると思います。そこでは、「礼拝式」のプログラムが決まっていて、様々な報告や案内、賛美、祈り、そして説教などが行われていることでしょう。教会によっては、聖餐式が含まれることがあったり、会衆の中からの証しなどが組み込まれていたりすることがあるかもしれません。また、「礼拝式」の行われている場所や人数、使われている楽器の種類や数、歌われている賛美の曲にも違いがあるでしょう。