■「旅」のススメ

紹介文
「人生の旅路」という表現があるように、人生は旅に例えられることが多い。また、旅が人生の縮図のようでもある。キリスト者の人生も「旅」に例えることができる。本稿では、聖書に記された「旅」から、「神の国の視点」で私たちの歩みを振り返り、示唆を得たい。


「旅行は好きですか?」と聞かれて、「嫌いです」と答える人は、そう多くないと思う。日本人の海外・国内宿泊旅行者数の年間延べ人数は、1980年代に3億人を超えて、バブル崩壊後に一時期停滞したものの、ここ数年は5億人を超える人数になっている。単純計算すれば、全国民が年に3~4回泊まりがけで旅行していることになる。仕事のために、仕方がないから旅行するという人も中にはいるだろうが、観光旅行であっても旅行はしたくない、という人は少ないに違いない。

日本だけではない。世界的に旅行者の数は増えるばかりだ。情報通信技術が発達し、日本や世界各地の様子をスマートフォンで簡単に、いつでも見ることができるので、旅行先の候補は尽きない。航空機や鉄道などの旅行手段も発達して、世界のどこにでも行くことができる。その上、出入国時のビザ緩和傾向も手伝って、世界の延べ旅行者数は2017年に13億人を超え、2018年は14億人を突破した。その増加傾向は弱まりそうにない。

人々は、なぜ旅に出かけるのだろう。非日常を味わう、異文化を体験する、美しい景色を堪能する、新たな出会いがある、視野を広げる、そこでしかできないことをする、などなど、その魅力を挙げればきりがない。

旅に感じる魅力は人それぞれ異なるだろう。旅自体にもまた、それぞれの旅にしかない理由や魅力があるだろう。楽しい、気持ちがいいという理由だけではなく、自己啓発や成長のために旅に出る人もいる。「自分探し」の旅は、この部類に入るだろう。「かわいい子には旅をさせよ」という諺のように、旅で遭遇する様々な体験がもたらす気づきや変化を期待して旅に出たり、出されたり(?)するのだ。

かく言う私も旅行好きだ。仕事であれ、プライベートであれ、国内外を問わず、旅に出かけることが好きなのだ。新し物好きも手伝って、慣れ親しんだ場所を離れて、異なる環境に身を置くこと自体が心地よい。新しい人、新しいもの、そして新しいこととの出会いから多くの刺激をもらう。

そんな旅を独り占めしてはいけないと、他の人たちを誘って旅にでることもある。かつては定期的に、牧師対象の団体研修旅行を企画していたこともあった。そのような団体旅行では、海外、それも米国に出かけていたので、「アメリカの教会を見本にしているのですか?」と聞かれることが多かった。参加者の中には、見本にして学びたいと思っていた方もいらっしゃったと思うが、企画していた者としては、そんなことは考えていなかった。

日本の教会は、西洋からの宣教師の働きによって生み出された背景がある。戦後生み出された教会は、特に米国の文化的影響を受けているといって良いだろう。日本の教会が内包している米国の文化的要素が、日本における教会形成や宣教、ひいては信仰のあり方や福音理解にまで入り込んでいるところがある。

米国において文脈化された宣教や教会を現地に赴いて観察することで、西洋文化の影響を浮き彫りにすることができる。そのような視点から、日本における教会形成や宣教のための示唆を得ようと考えていたのだった。

加えて、日本を離れることで得られる効果も期待していた。日本の縦社会の中では造りあげにくいフラットな関係が、「旅行者」という同じ立場になることで造りやすくなる。また、日本を離れることで、改めて考える「日本」というものもある。そして、一緒に旅をしながらお互いの反応や学びを共有することで、新たな気付きや学習が相乗効果として与えられるという利点もある。そのようなことを考えて旅行を企画していた。

だからと言って、聖書の神さまを信じて従うためには、海外旅行に行かなければならないと思っている訳ではない。とはいえ、神さまが旅を通して私たちに教えてくださることを見過ごすべきではないだろう。

聖書には実に多くの旅が登場する。アブラハムは75歳になって、神さまに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)と命じられて旅に出た。そんなアブラハムに神さまは「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創世記22:2)と命じて、片道三日間の場所へ試練の旅に送り出された。

飢饉が訪れると「主はイサクに現れて仰せられた。『エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。』」(創世記26:2)このようにしてイサクも旅にでた。イサクの次男ヤコブも長子の権利に絡んでトラブルを起こした後に、結婚相手を求めて旅に出る。(参照:創世記29章)

ヤコブは家族をもうけた後も、大家族で旅を続ける(創世記35:21)。兄弟争いの結果エジプトに連れて行かれたヨセフが先駆けとなって、ヤコブの息子たちによって形成されたイスラエル12部族もエジプトに旅をすることになる。モーセが引率した出エジプトの民族大移動は、神さまがイスラエルの民を「御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出して」(使徒13:17)くれた「旅」そのものだった。

旧約聖書に記されているイスラエル民族の歩みは、捕囚による強制的な旅も含めて、旅を通して神さまに取り扱われる歩みであったと言っても過言でない。新約聖書に入っても、「旅」は終わらない。イエスさまの公生涯もパウロの宣教も、「旅」という舞台で展開していたといっても良いかもしれない。

神さまは「旅」を通して、人々を教え導いておられるかのようだ。それでは一体、神さまは「旅」を通して私たちに何を教えようとされているのだろうか。いくつかのことを考えてみたい。

まずは「キリスト者のアイデンティティ」に関することである。「私たちの国籍は天にあり」(ピリピ3:20)、私たちは神さまと「ともにいる旅人で、私の全ての先祖たちのように、寄留の者」(詩篇39:12)であることを教えられる。キリスト者は神さまのご支配、すなわち神の国に属する者であって、この「地では旅人」(詩篇119:19)である。このアイデンティティが、私たちの視点を変える。

旅の途中に滞在する場所は全て一時的であって、永遠にそこにいる場所ではない。このような視点で世界を見るならば、私たちの考え方や姿勢も変わる。直面する困難や苦難も、一時的なものになる。何らかの立場を持ったとしても、それも一時的である。だからパウロはこう告白できたのだろう。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(第2コリント4:17)

そして同時に、このアイデンティティが、旅の途中の「今」を大切に生きるように促してくれる。極端な言い方になるが、「余命あと一ヶ月」と宣言された人は、残された一日一日を無駄に過ごすことはないだろう。現在の生活が永遠に続かないと考えることで、与えられた一日一日を大切に生きるようになる。「やり残しのないようにしよう」、「有意義な生き方をしよう」と考えるはずだ。

旅に出たことのある人は、こんな卑近な例を出さずとも分かるだろう。例えば2泊3日の旅に出たとする。この限られた2泊3日の時間を大切に使おうと思ったはずだ。

キリスト者は、神の国の所属意識と目的意識を持って「旅人」として生きる。あなたは国籍のある「天の国」に帰るまで、何を、どこで、誰と、どのように生きるように召されているだろうか。「旅人」のアイデンティティを持って人生を歩みたいと願う。

次に、旅が私たちの生活の全てを含むという点について考えてみよう。旅の「全人的側面」と言っても良いかもしれない。旅にでかけるなら、食事や寝床など生活の全てが日常とは異なる。自分の生活の全てが変化する。たとえ日帰りの旅であったとしても、旅先の「ヒト・モノ・コト」に全人的に関わることになる。

イエスさまは最も大切な戒めとして「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12:30)と仰せられた。全人的に神を愛せ、との命令である。パウロは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(第一コリント10:31)と勧めた。

生活の一部だけ、自分のある側面だけで、神の国の国民として生きるのではない。この世に属するのではないが、「この世離れ」して生きるのでもないのだ。時折、聖俗二元論的な考え方で、「できるだけ『この世』とは関わりを持たないようにして、『聖なる生活』をしようと考えているのではないか」と疑いたくなる人を見かける。

そんな人を見ると、海外からの「団体観光ツアー客」が思い浮かぶ。自国の服装をして、自国の人たちだけで固まって、自国のことばを使い、旅先の「ヒト・モノ・コト」に関わらないで、「見物」するだけだ。このような観光が悪いとは思わないが、そんな旅をしている人を「旅人」と呼ぶのには抵抗を感じる。

「教会生活」という言葉を聞くことがある。これは一体何を指しているだろう。自分の生活の中で、教会組織の活動に参加している、関わっている部分を「教会生活」と呼ぶのだろうか。それとも生活の全領域を、キリストの体である教会の一部分として生活しているので、人生の全てを「教会生活」と呼んでいるのだろうか。

神さまは、存在の全ての領域において、神の国の国民、キリストの弟子として生きるように導いておられる。イエスさまの公生涯も「旅」そのものであった。紀元一世紀のユダヤ人社会の生活を「旅人」として生活された。そして、「十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き」(マルコ3:14)寝起きを共にしながら、宣教に携わらせるためだった。「旅」をしながら、弟子を育てたのだった。全人的な関わりの中で、「旅先」の生活を通して神の国を教え、神の国の国民を育てられた。

他にも「旅」を通して学ぶことは多いが、最後にもう一つだけ考えたい。それは、旅の「漸進的側面」である。

「旅」は時間とともに、私たちを前に進ませるのだ。紀元前の哲学者、ヘラクレイトスは「同じ川の水に二度入ることはできない」と表現した。流れている川の水は同じでないし、時間とともに自分も変わっているはずだと言う。同じようなことを、紀元12世紀に鴨長明は「方丈記」の冒頭に記した。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」

同じ場所に、同じように訪れたとしても、全く同じとは言えない。これは何も旅に限ったことではないが、「旅」という状況の中で、人生の漸進的側面を再認識することがあるように思う。

パウロはこう表現した。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」(第2コリント5:17)

詩篇では、「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩篇118:24)と詠われている。主が救いの業をなしてくださった日だけではない。誰も経験したことのない新しい毎日があるのだ。そして、その日に、その日にしかすることのできないことがある。

このような人生の漸進的側面を自覚しながら生きるなら、過去に縛られて「今」や「未来」を捨ててしまうことはないだろう。縛られるとまでいかなくとも、「過去の成功」にいつまでもしがみついて、前に向かって新たなチャレンジを受け止めることができなくなることもない。

「旅人」である私たちは、いつまでも同じところにとどまっていてはならない。キリスト者の人生は、病院の待合室で順番待ちをしているようなものではないのだ。神さまは「向きを変えて、出発せよ」(申命記1:7)、「立ち上がれ。出発せよ」(申命記2:24)と命じられた。イエスさまも「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音をしらせよう。わたしは、そのために出てきたのだから」(マルコ1:38)と言われた。

私たちキリスト者は、「この程度で良いだろう」とか「ここまで良くやったから後は何もしなくて良いだろう」というような人生とは無縁だ。年老いたヨシュアに神さまは言われた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(ヨシュア13:1)

「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」(エペソ2:10)のだから、「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」(第2テモテ4:7-8)と告白できるまで、前に進んでいくのだ。天の国に帰るまで「旅」を続けよう。

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TAKESHI

 

【RAC通信】 – 2019.06.04号 TAKESHI