紹介文
かつて教会は、世界の文化の中心となり、社会のさまざまな問題と向き合ってきました。ところが現代ではすっかり陰に隠れて、「どんな活動をしているのか分からない」とか、「日曜日に歌が聞こえてくる」というくらいにしか知られていないという現実があります。
それは、教会で行われている活動の目的を見失ってしまっていることが原因です。「何をするか」ではなく、「なぜそれをするのか」ということを考えるとき、教会は本当にするべきことを見出し、福音をより多くの人たちに届けることができるようになります。
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ある時、未信者の方との会話の中で、ハッとさせられたことがありました。自分がクリスチャンであることを話すと、このようなことを言われたのです。「あぁ、それではあなたも、日曜日には教会で祈ったり、歌ったりしていらっしゃる人なんですね。」その方の言葉には、「世間から離れて教会に籠り、歌ったり祈ったりしていれば幸せですよね」という、皮肉が込められているように感じました。
残念なのは、教会を表現するその方のことばが、必ずしも見当はずれではないということです。クリスチャンの活動が、社会から離れて建物の中だけになっていることは少なくありません。そして、自分の世界に没頭して祈ったり歌ったりしている姿は、自らを世界から切り離そうとしているようにも見えます。
教会は、いつもそういう存在だったわけではありません。イエスさまが地上におられたころは、癒しなどの奇跡を起こすことを通して人々と関わっていました。説教もなさいましたが、会堂だけではなく人が集まる場所ならどこででも話されました。それは弟子たちも同じです。彼らの活動は、当時の人々のニーズに応えるものでしたし、教会堂に籠ったりすることなく、活動をあらゆる場所に広げていました。
パウロの主な活動は伝道でしたが、彼は教会をキリストのからだと定義し(エペソ1:23)、天に帰られたイエスさまに代わって行動することの大切さを説きました(コロサイ1:24)。福音を恥としない(ローマ1:16)彼の姿勢は、多くのユダヤ人の反感を買い、社会的な問題となるほどでした。
教会はその後も、様々な形で世界と関わり、影響を与えてきました。教会から科学が始まり、教会から学校が始まり、教会から病院が始まり、教会から福祉活動は始まりました。教会からは、さまざまな文化や芸術も生まれました。教会がなければ、人類の歴史はもっと野蛮で味気のないものになっていたでしょう。教会は、キリストのからだとして世界と関わっていたのです。
しかし、教会はいつの間にか、世界から目を背け、教会堂の中に籠るようになってしまったかのようです。そんなつもりはないのだと思いますが、教会が「真理」だと考えて大事にしていることと、世の中が「現実」だと思っていることのギャップが大きくて、互いに理解できなくなり、距離ができてしまっているのです。
例えば、教会が大事にしていることのひとつに、日曜礼拝があります。毎週休むことなく礼拝に出席することが求められ、しばらく来ない信徒がいると、心配して連絡したりします。しかし、店舗で働く人たちが日曜日に休みを取ることは難しく、シフト制で働いている人たちは、決まった曜日に休みを取ることすらままなりません。
教会は、教理や教義も大切にします。何が正しい聖書の解釈なのかを追求し、研究します。教会に安らぎや慰めを求めてきた人たちは、そこで難しい神学の講義を聞くことになります。教会は、自分たちが主張する神学に合わない解釈を否定し、場合によっては「異端」と呼んで攻撃するので、攻撃の的とならないために取り繕わなければなりません。しかし、ほとんどの人たちは、神学に興味を持ってはいないように思います。
それでは、教会は日曜礼拝や、神学を学んで教理や教義について考えることは止めて、社会に関わったり、役に立つことだけを教えればいいということでしょうか? もちろん、そうではありません。聖書を正しく理解しようとする神学は大切ですし、それを表す教理や教義も必要です。そして、神さまを礼拝することが大切であることは、言うまでもありません。問題は、多くの教会が日曜礼拝や神学を学ぶ「目的」を見失って、それ自体を目的にしてしまっていることなのです。
恐らく教会は、「何をするか」ということを聖書や教会の歴史から見出そうとしてきたのでしょう。しかし、本当に考えるべきは「なぜそれをするのか」ということです。時代や文化によってやるべきことは変わっていくのですから、私たちはその行動の本質的な意味を探り、目的を果たしていく必要があるのです。
かつて律法学者やパリサイ派のユダヤ教徒たちは、律法の目的を見失って、律法を守ることそのものを目的としてしまいました。それによって彼らは、表面的なことばかりに囚われて、人々を縛り付けることとなってしまいました。そしてついには、自分たちが神さまから離れてしまっていることにさえ、気づくことができなくなってしまったのです。それと同じようなことが多くの教会で起こってしまっているのだとしたら、それは大きな問題ではないでしょうか。
神さまが私たちを創造されたのは、私たちと愛の関係を持つためであり、私たちが互いに愛し合うため、そして神さまが創造された素晴らしい世界を管理するためでした(創世記1:26-28)。神さまを礼拝し、神学を学んで神さまを理解しようとすることは、飽くまでもその関係を回復するための方法であり、手段です。
神さまとの関係を回復し、深く築いていくという目的が果たされているなら、神さまを礼拝する方法や神さまを身近に知る手段は日曜礼拝に参加することだけではありません。西洋の文化では日曜日の朝集まることが良かったのでしょうが、現代の日本ではより効果的な別の方法があるかもしれません。私たちは、自分たちに合った方法について、もっと考えるべきだと思います。
そして、私たちが創造されたもうひとつの目的は、神さまが創造されたこの世界を管理するということです。神さまから離れて罪人となった人類は、これまでの歴史の中でたくさんの失敗をしてきました。だからこそ、神さまとの関係の中に生きる私たちが果たすことができる役割は大きいはずです。私たちが、神さまに与えられた知恵や力を持って世界に出ていったら、きっと素晴らしいことが起こるに違いがありません。そして、そのような出来事を通して人は神さま知り、求めるようになるのです。
イエスさまはこのように言われました。「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(マタイ5:13-16)
私たち教会は、もう一度塩気を取り戻し、教会堂という升の下から出てくる必要があります。私たちクリスチャンのあるべき姿は、そこにあるからです。
KENTARO
【RAC通信プラス】 – 2019.12.24号…【有料版】第216号 KENTARO