■「頑張れアレルギー」の克服

紹介文
「気持ちで勝敗が左右する」と考えている人に出会うと、「お前の頑張りが足らない」と言われているようで忌避したくなります。それを「頑張れアレルギー」と呼んでいます。しかし、先日友人から、「頑張っていないときの方がパーフォーマンスが高いですよね」と言われて目が開かれました。人と比べてどうかではなく、集中して成果を生み出すための「自分なりのスタイル」に合った働き方をしているかどうかが問われます。

また、どう働くかという「How」よりも、なんのために働くかという「Why」の方が大切です。神と家族の喜びのために働くときに、神もまた「頑張れ」と声をかけてくださることがあります。「頑張れ」という言葉が真理か偽りかではなく、真理の父が話しておられるか、偽りの父が話しているかが問題です。


・気持ちで打ちましたね!

野球解説者が、「このホームランは気持ちで打ちましたね」などと、起こった現象を精神論に還元して、「解説」ならぬ「感想」を述べているのを聞いて、忌避感を持つことはないでしょうか。このような「解説者」は、打者が不調のときには、「気持ちで負けました」などと言います。気楽な稼業だなあと思います。しかし、こういう根性論は、一定の支持を得ているようです。

現在、ある会社の理念を調べているのですが、結局、いろいろ困難なことがあっても、主体的に物事を捉えて、あきらめないで最後までやれという勇ましい精神論が、基礎的な価値観となっていることがわかりました。とても素晴らしい会社なのですが、この価値観の並べ方を見るときに、あの野球解説者の怪しさを思い起こしてしまいました。

確かに、なんでもすぐに諦めてしまったり、ちょっとうまく行かなければ誰かのせいにして拗ねたり、逆に、一発逆転のギャンブルに走ったりする人たちは、何事も達成できないだろうなあとは思います。主体性やレジリエンスやチャレンジ精神の大切さは、地道に努力して成功した人たちの多くの証言から理解することができます。

それなのに、私が「頑張れ」というメッセージに過剰反応してしまうのはなぜなのでしょうか?

・為しても成らないこともある

「為せば成る」事例は多くありますが、どうにもならない不条理も世界に満ちています。野球解説者は成功した元野球選手なので、「気持ちで勝敗が左右する」という信念を持っているのかもしれません。けれども、見方を変えると、野球で功なり名遂げた人も、引退して解説者をしています。その人たちもまた、頑張っても、現役を続けることができなかったのです。

理不尽なことに出会ったときに、「お前の頑張りが足らないからだ」と言われたり、そう言うだろうなと想像するだけで、「それは私のせいですか」と言い返したくなるのです。自分なりに努力を続けても、いつも願った結果が出るとは限りません。「もっとできたはずだ」と言われれば、そうかもしれませんが、そんなに無理してどうなるの、とも一方で思ってしまいます。

そもそも、なぜ頑張るのですか。頑張る目的は何ですか。頑張った結果、それなりの充実感や達成感を得ることはできるかもしれません。しかし、それだけが人生の喜びではありません。勝つ人がいれば負ける人もいます。西部劇で町の看板娘と結婚するヒーローは一人です。彼以外の人は、「頑張らなかったからこんな鬼嫁と結婚した」と思うべきでしょうか

・頑張っていない方がパーフォーマンスが高い

先日友人と、私の「頑張るアレルギー」について話していました。そのときに、二つの知恵の言葉を語ってくださいました。ひとつは、「あなたほど頑張っている人を見たことがありません」という言葉でした。

その言葉を聞いて目が開かれました。私は9時から5時まで休みなく座って仕事をすることができません。いわゆる軽度のADHDなのです。しかし、そんな自分の扱い方は知っています。たとえ短い時間でも、集中力を高めて上質の仕事をするということについては、いわば自分の専門家なのです。友人は、私が人と比べてどうかではなく、私のライフスタイルを観察して、「頑張っている」と認めてくれました。

もうひとつの言葉は、「あなたは、頑張っていないときの方がパーフォーマンスが高いですよね」という言葉でした。

確かに、リラックスしているときや、休んで友人と話しているときなどに、思わぬ成果を上げることがあります。予想できない展開が始まり、いい感じで力が抜けて、とても素晴らしいことが起こるということを、これまで何回も経験してきました。問題は、人と比べてどうかではなく、集中して成果を生み出すための「自分のスタイル」に合った働き方をしているかどうかです。

しかも、もしスタイルの選択の課題であるなら、それは「How」という方策の問題であって、もっと重要な課題があります。それは、「Why」と「What」です。なぜそれをするのか、その目的達成のために何をするかという課題です。目的や期待する結果を自問自答せずに、「もっと頑張れ」と勝手に自分を叱咤激励するのは、私の思考パターンに染み付いた言葉の罠であって、神が願っておられることではありません。

・父や家族の喜びを思い描く

私たちは皆、「はじめてのおつかい」に出された子どものようです。親は子どもに買い物の目的を説明し、具体的な指示を出します。そして、お金を持たせて送り出します。親は子どもの能力も性質も傾向も知った上で、子どもがその成長の段階でも「できる課題」を出すのです。無闇に頑張っても、どこかで無理が出ます。親の指示に従って、「めげそうになったら飴を舐める」などという、親が用意した道に従うことです。親にとっては、他所のお子さんがどこまでどうしたか、などということは関係ないのです。

大切なのは、どこまで強がるかではなく、少々間違ったものを買って帰っても、買い物をし終えた自分をしっかりと抱きしめてくれる親の喜びを思い描くことです。また、一緒に食事を楽しむ家族の笑顔を楽しみに待つことです。

父なる神が「頑張れ」と声をかけてくださるときもあります。そのときは、頑張ることができるときです。真理の父は、私たちがそれをすることができるから励ましてくださっています。我が子を愛おしむ親のように、笑顔で励ましてくださるのです。

神は過ちを犯したアダムに、「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか」(創世記3:11)と問われました。「頑張れ」という言葉が真理か偽りかではなく、真理の父が話しておられるか、偽りの父が話しているかが問題です。真理の父の言葉しか聞かない、と決めることで、「頑張れアレルギー」からだんだん解放されるのだと思っています。

福田充男

RAC通信プラス】 – 2019.12.17号…【有料版】第215号  福田充男