第7章:では、いったいだれがボスなのか
私たちの経験では、いつでも私が妻のフェリシティーと宣教旅行に出かけて留守にするとき、教会はいつも成長し、時には新しいグループを生み出して増殖することさえあります。
新約聖書に記されている教会のモデルを見ると、教会が最善の指導者たちを派遣することは珍しいことではありませんでした。
アンテオケの教会がパウロとバルナバを派遣したことについて見てください。49
その後のパウロの働きを見ても、しばしば彼は、一つの町にわずか数週間か数ヵ月しか滞在しませんでした。
しかしその町を去るときに、パウロは彼が残していく人々を聖霊にゆだねることができました。
私たちは主任牧師を派遣して、教会をユース牧師と長老との手にゆだねるということを少しも考えないのです。
では、現在の教会のリーダーシップについての考え方は、新約聖書に描かれている聖書的なモデルとどのように結びつくのでしょうか。
1960年代後半から70年代前半にかけて、聖霊は大西洋の両側において力強く働いておられました。
アメリカでは『ジーザス・ムーブメント』が起きていました。
聖霊によってアメリカの教会にもたらされた強調点は、神の超自然的な力でした。
多くの普通ではないいやしの働きが進められ、カルバリーチャペルやビンヤードといった新しい教会のムーブメントが起こされ、 その他にも多くの教会がその信仰のムーブメントによってチャレンジを受けました。
イギリスでは強調点は異なりました。
カリスマ的なムーブメントは、キリストのからだであることの重要性へと導かれていきました。
神が使徒的、また預言的な働きを起こされ、教会に悔い改めと信仰とをもたらすにつれ、教会の構造や政治ということが前面に出されていきました。
賜物よりも、品性のほうに強調点が置かれました。
アメリカもイギリスも、お互いから学べることが多くあります。
片方の長所はもう片方の短所であるという傾向があります。
どのように互いの長所を学び合い、それを生かしていくかが課題です。
私たちが教会生活について語り合っていることの中で、最も物議をかもすこと事柄の一つは、リーダーシップです。
ある人たちは、教会にはどのような種類の組織立ったリーダーシップも必要ないと感じています。
つまり、もし教会が小グループから成り立つのなら、具体的なリーダーを立てる必要は全くないと考えるのです。
しかし、新約聖書の教会は実際にリーダーたちを立て、そのうちの何人かは、時には強いリーダーシップを発揮することもありました。
もう一つの極端な考え方は、ビジネスにおけるCEOのようなリーダーシップです。
一人の人がビジョンを抱き、そのビジョンを達成するために権威を行使するという考え方です。
多くのスタッフを抱え、洗練されたプログラムを行う「メガチャーチ」はこのようなスタイルのリーダーシップの典型的な現れであり、アメリカにおいて「成功した」教会の基準となっています。
しかし、このようなタイプのリーダーシップも新約聖書に見出すことは困難です。
では、初代教会におけるリーダーシップとはどのようなものだったのでしょうか。
新約聖書をさっと読むと、だれが教会の責任者であったのか疑いの余地はありません。
それは、聖霊を通して働かれたイエス様でした。
コロサイ1:18にこう書かれています。
「御子はそのからだである教会のかしらです。」
使徒の働きも、このことが実際になされたことをはっきりと示しています。
例えば、使徒13:2にはこう書かれています。
「彼ら(アンテオケの教会にいた預言者や教師たち)が主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。」
そこには、神が日々の教会生活を実際的に導いてくださるという期待感がはっきりとありました。
ですから、私たちが教会のリーダーシップについて見つけようとしているのは、本当のところは主がリーダーシップを取ることができるようにする環境なのです。
それは、民主主義でも、CEO(最高経営責任者)のようなタイプのリーダーシップでもありません。
イエス様がご自分の教会をリードするにあたって、歓迎されるようなスタイルなのです。
今の時代にあって、どのようにしてそれが実際に起こり得るのでしょうか。
それは、絵に描いた餅に過ぎないのでしょうか。
私たちの経験では、それは単に実現可能なだけでなく、極めて実際的でもあるのです。
私たちは、イエス様がその生涯を通して示され、教えられた権威の性質について、新しい目で見る必要があるだけなのです。
マタイ20:25-28でイエス様はこう言われました。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
イエス様は、仕えるリーダーシップについての最高の模範でした。
パウロはこのようなリーダーシップについて次のように述べています。
「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです」(Iテサロニケ2:7-8)。
またペテロも、Iペテロ5章で長老たちにこのように助言しています。
「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範になりなさい。」
権威とは他の人々に喜んで仕え、優しく、愛に満ち、他の人々のために自分のいのちを惜しまずにささげるという、 しもべとしての性質を持ったものであることが、新約聖書全体を通じてはっきりと示されています。
私たちは様々な状況において、これが何を意味するのか実際的に体験してきました。
何年も前のことですが、トニーは教会の働きの一部としてクリスチャンスクールを始めるように主に導かれているとはっきりと感じました。
その頃、私たちはロンドンの東の端で働きをしていました。
それは市の中心部で、その地域の学校は学術面においても、霊的な面においても非常に悪かったので、ほとんどのクリスチャンたちは子どもが就学期を迎えるとその地域を離れていきました。
このような願いを持っていたトニーに対して、リーダーシップチームは一人を除いてみな賛成していました。
そのとき、重要な決断を下すときには、はっきりと一致するまで待つというのが私たちのやり方でした。
私たちが一つの心、一つの思いに至るとき、聖霊が許可を与えてくださるという思いで、私たちは聖霊に信頼していました。
主が驚くべき仕方で郊外にあったある土地を学校建設のために私たちに与えてくださることが分かったちょうどそのとき、リーダーシップチームの全員の意見が一致し、「一つの心」となりました。
これは、アメリカの教会で普通に見られる「主任牧師」という考え方とは対称的です。
私たちがアメリカに来てから最初に通った教会のうちの一つでは、ビジョンは牧師のものであり、その他の人々はみな牧師のビジョンを支持するべきであると、私たちははっきりと言われました。
私たちは、これがアメリカのほとんどの教会でなされているパターンであることに気づきました。
最初に、また最終的に決定する権利をもったCEOが確かにいるのです。
興味深いことに、主任牧師も、教会員たちも、そのようにすることを好むのです。
多くの牧師たちは人々から賞賛を受けていますが、それは偶像礼拝に近いものであると私たちは感じています。
もちろん、私たちはリーダーたちを尊敬すべきです。
それは自然なことであり、また聖書的なことです。
しかし彼らを偶像化しないように気をつけなくてはなりません。
そうでないと、彼らは転落してしまうかもしれません。(マザーグースの歌にある)ハンプティ・ダンプティの話を思い出しましょう!
イエス様が当時の宗教指導者たちに与えられた警告を心に留めましょう。
「…あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。 あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです」(マタイ23:7b-9)。
しかし今日の福音派、カリスマ派においては、牧師は「先生」と呼ばれることを好みます。
彼が語ることを賞賛する人々は、その人を偶像化します。
これは主任牧師だけの問題ではありません。
今日の教会文化が、指導者たちにこのような態度を持つようにと人々に教えているのです。
これは公正を欠いています。
あまりにも多くの牧師たちがしもべとして仕えるのではなく、CEOとして振舞ってしまっているのは驚くことではありません。
給与をもらっている専属の働き人として、牧師たちは教会の行くべき方向性を神に求めるだけでなく、毎週日曜日と水曜日の夜に説教で何を語るべきか神に聞き、プログラムを準備し、病人を訪ね、そして完璧な家庭生活を送ることが求められているのです。
多くの牧師たちがこのような不可能な理想像に到達しようと努力し、そのために道徳的、あるいは肉体的に倒れてしまうのは驚くことではありません。
私はこのことについて考えるとき、私たちが医師として働いていたときに人々から尊敬されたことを思い起こします。
白衣を着ると(そして、みんなに見えるように聴診器をつけ)私が自動的にリーダー、そしてボスになります。 そのようにして得る尊敬は、薄っぺらいものです。ある人を尊敬に値する人にするものは、その人の立場ではなく、品性です。
問題は、その人が尊敬を受けるに値しないときに、尊敬されることを喜んでしまうことです。
トニーがアメリカの諸教会で奉仕し始めたとき、人々から「牧師」や「ドクター」と呼ばれることを拒んだがゆえに、うかつにも彼と一緒に働いていた牧師たちとの間に多くの問題が生じてしまいました。
彼は自分の立場がもたらす名声を好まず、また受け入れようとしませんでした。
教会の指導者たちは立場を保つことによってではなく、いのちを差し出すことによって尊敬を得る必要があります。
このような問題を生じさせる原因の一つは、主任牧師を主要な指導者とする教会のあり方は聖書的なモデルではないということです。
事実、「牧師」という言葉は、新約聖書ではエペソ4章にのみただ一度だけ用いられ、それは教会におけるいくつもの働きの一つに過ぎないのです。
新約聖書における教会のリーダーシップについて注意深く見ていくなら、一人の人によって導かれた教会というものは一つもその例がありません。
エルサレムであれ、アンテオケであれ、エペソであれ、どのような場合においても、複数の指導者たちがいたことが記されています。
使徒14章では、パウロとバルナバが開拓した諸教会に戻り、 それぞれの教会で長老たち(一人ではなく、複数)を立てたことが書かれています。
ですから、地域教会は複数のリーダーたちによって治められていたのです。
このようなリーダーたちが持っているべき資質はどのようなものだったのでしょうか。
神学校での学びや神学の学位ではありませんでした。
Iテモテ3章とテトス1章に、リーダーとなるために必要な資質について記されています。
他のどんなことよりも、品性や生き方に焦点が当てられています。
教会が賜物を持った人たちよりも、正しい品性を持ち、一貫性のある人たちによって導かれることのほうが大切であることは、 当時も今も変わりません。
今日、牧師やワーシップリーダーを選ぶとき、舞台の上から(説教やワーシップのリードによって)人々を楽しませる能力があるかないかをおもな判断材料にしていることとは、何という違いでしょうか。
それは、牧師招聘委員会が他の教会からだれかを招くためにふさわしい給料を提示することの助けにはなるかもしれませんが、それでは神の召命を全うすることはほとんどできません!
教会が複数のリーダーによって導かれるという新約聖書の方法に従って運営されるとき、リーダーシップの立場にいる人々はとても安全です。
私はトニーが医師やその他の医療関係者たちの間で行っていた働きのために、非常に多くの時間を使って国内や海外の様々な場所を訪問していたときのことを思い出します。
彼はまた、ロンドンの東端にあった教会のリーダーの一人でもありました。
ロンドンの教会のリーダーシップチームは彼が不在でいる時間があまりにも多く、私たち家族が苦しんでいる(私は何ヵ月もの間、彼にそのことを話していました!)ということに気づきました。
神はトニーが行く先々で非常に多くの祝福を注がれました。
しかし、互いのために喜んで仕え合っていたリーダーシップチームの一員であった彼は、1ヵ月のうち日曜日に教会を離れるのは2回までとすることに合意しました。
私はそのリーダーシップチーム全体に与えられた知恵のゆえに、神をほめたたえました。
もしリーダーたちが互いに責任を負い合うことを実践し、互いに仕え合うというチームに心から参加しているなら、近年アメリカの教会をあまりにも荒廃させているスキャンダルの半分は防げたのではないかと私は思います。
このようなリーダーシップチームがどのように機能したかを少し述べたいと思います。
これは様々な国々や文化において、様々な教会を立ち上げる上で、実際に成功したモデルとなっています。
定期的に集まり、その時間の多くを主を礼拝し、求めるために用います。
事務的なことをより多く話し合うためには、より多くの時間を神の臨在のもとで過ごす必要があります。
もしそうしなければ、わずかなことを話し合うだけで何時間も取らなければならなくなります。
もし1 時間やそれ以上の時間を神の臨在のもとに過ごすなら、私たちは同じ思いを持つことができるので、わずかな時間で非常に多くのことを話し合うことができます。
それに加えて、主が自由に介入してくださり、ミーティングで話そうとしていた方向性を大きく変えるような預言の言葉や洞察を頻繁に与えてくださいます。
私がまだ働きを始めた初期の頃、このようなパターンに従ったリーダーシップミーティングのことを、私は今でもよく覚えています。
その当時、自分の罪を神に告白しないままでそのミーティングに参加するという勇気を持った人は、だれ一人としていませんでした。
それは聖霊が必ずそのことを明らかにし、取り扱われるからでした。
恐ろしくもあり、また、すばらしいことでもありました。
教会のリーダーシップは地域教会という状況のみに見られるものではありません。
パウロをはじめ、エルサレム会議(使徒15章)に参加した他の指導者たちが、彼らの強い個性と使徒的な役割のゆえに、 地域教会の枠組みをはるかに越えた権威を持っていたことは明らかです。
全世界の主の教会において、似たような賜物を持った人々がキリストのからだにおいて派遣されることに対する尊敬と期待が、再び高まっていることは確かです。
ピーター・ワグナーのような人たちの言う「新しい使徒的宗教改革」とは、教会の歴史を通じて神がご自身の群れを牧するための働き人として、使徒的、預言的な男性や女性を養成して来られたことを単に認めているものに過ぎないのです。
コンゴ(ザイール)において先駆者的なペンテコステ派の宣教師であったウイリアム・バートンは、生涯を終えるまでに1000以上の教会を生み出しました。
アメリカのビンヤード・ムーブメントの創始者であるジョン・ウインバーは、彼自身の働きを表すのに「使徒」という言葉を用いることに躊躇したかもしれませんが、多くの人々は彼がその職務を果たすのに適した人であったと認めています。
教会生活に関する説教を『キリスト者の標準』という小さな本に著したウォッチマン・ニーは、使徒と預言者の役割についてとてもはっきりと述べています。
ウォッチマン・ニーは、中国の何百万人の人々に触れる中国人による教会のムーブメントを残しました。
また、彼の働きは、世界中で起こされた多くの新しい教会の基礎ともなりました。
今日の教会において使徒が存在することを信じるために、現代における使徒は十二使徒と同じ部類の人たちであると考えなければならないことはありません。
今の世代、復活され昇天されたキリストがご自身の教会に注ぎたいと願っておられるすべての賜物が必要とされています。50
教会は今もなお「使徒と預言者という土台」51の上に建てられています。
小さな独立した教会(アメリカ全土にある家々や店先でなされる集会)においてとてもよく見られる弱点の一つは、それらの教会が自分たちの群れ以外のところから来る使徒的、預言的な働きがもたらす穏健な影響力を好まない、あるいは受け入れないことです。
これは教会を大きく弱めることにつながります。
外部から来るものすべてに対して懐疑的になり、孤立してしまいます。
さらに残念なことに、いくつかの教会はかつての『エクスクルーシブ・ブレザレン』のように、自分たちだけが本当のクリスチャンであると感じるようになってしまいます。
彼らが間違っているかもしれないとは、預言者でなくても識別できます。
地域教会が、外部からの使徒や預言者として認める人たちの意見を歓迎するとき、彼らは主が備えてくださった安全装置を身につけることになります。
外部からの働きに対して心を開いている教会は、孤立したり、内向きになったりする傾向が低いのです。
このような教会は自分たちに与えられている賜物や能力に限定されることなく、イエス様がご自身のからだに備えられた賜物を持つ人々から力を受けることができます。
このような指導者たちは、キリストのからだが成長し、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ことを助けるために存在するのです。
使徒パウロは、諸教会に宛てた手紙のうちの一つにおいてこう述べています。
「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。 この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」52
使徒は、必ずしも訪問するすべての教会から「使徒」の職務についていると認められるわけではありません。
パウロはコリントの教会の「父」となったので、コリント人たちからは使徒として自然と認められました。
ということは、教会を生み出すすべての人が使徒的なのでしょうか。
それは全く違います。
これは、預言の言葉を与えられた人はすべて預言者としての召命を受けているというのと同じくらい間違った考え方です。
私たちが認めるべきことは、ある人たちは使徒として、また別の人たちは預言者として召されているという事実です。
それこそ聖書的な考えであり、昇天されたイエス様がご自身の教会に与えられた賜物なのです(エペソ4章)
さて、エペソ4章に記されている働きの目的は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」ることですから、すべての神の民がどのようにして奉仕に関わっていくのか見ていきましょう。