第6章:共に集まるとき

私たちが共に集まるとき何をしたらよいか、どのようにして知ることができるのでしょうか。42
1コリント14:26の後半に書かれていることをもとに考えるとき、これは最も興味深い質問です。
パウロはここでこのように答えています。
「それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。…」私たちの集会においてこのようなことがほとんどなされないのは、なぜでしょうか。
それはプログラムが入ってきたとき、聖霊が追い出されてしまったからです!
クエーカーの創始者であるジョージ・フォックスは、たとえ長い時間説教台の前で立ち尽くすことになったとしても、 「聖霊が彼のところに降りてこられるまで」説教することを拒みました。
今日クエーカーの集会が沈黙の後になされる情熱に満ちた説教ではなく、沈黙という点においてのみ知られているとは、何と残念なことでしょうか!

小グループ生活(大学でのクリスチャンのグループ、家庭集会、あるいはセルグループなど)を体験したことのあるほとんどの人たちは 「それぞれが何かをし、集会に貢献することが許された」ときのことを、喜びをもって思い起こします。
多くの人々にとって、ナビゲーターでの学び会、キャンパスクルセードの集会、あるいは職場での少人数による祈り会などでの体験は、 教会での実際の生活には役に立ちません。
大多数のクリスチャンは、教会に行くと突然、積極的に参加したり、互いに発見し合うことを通して絆を深めたりするのではなく、 何かのショーでの操り人形のように振舞ってしまいます。
前の世代において偉大なバプテストの説教者であったバンス・ハブナーが言ったように、彼らは「野球を観戦している木彫りのインディアン像のよう」になるのです。

先日、私たちはインドで多くの牧師たちを対象としたいくつものカンファレンスとセミナーを行い、家の教会についての原則を教えて、帰国したところです。
私たちが話していることを具体的に示すために、参加者たちを8人から10人のグループに分け、聖書の学びと祈りをしてもらいました。
まず、双方向型の聖書の学びについて、いくつかの単純な方法を説明しました(付録1参照)。
次に、学んだばかりの方法の一つを用いて、各グループで25分から30分、ピレモンへの手紙を学んでもらいました。
それを終えた後、彼らはワクワクしながら以下のことに同意しました。

  • ピレモンへの手紙について、これまでのクリスチャン生活全体を通してよりも、この30分間のほうがより多くのことを学んだ(彼らはみな牧師たちです!)。
  • 彼らが学んだことは実践的、現実的なものだった。
  • この短い時間ではその手紙の最初の部分を学ぶのがやっとで、全体を深くカバーすることはできなかった。
  • だれもが積極的に参加したがった。

テキサス州オースティン市で私たちが開拓した家の教会では、人々は集会で観客のようにただ座って見ていることは許されず、だれもが積極的に参加しなければいけないということを最初から打ち出しました。
この最初の2年間、私たちの教会には「説教」を見たり、聞いたりした人は一人もいないと私(トニー)は思っています。
どのような教えも含め、すべてのことをだれもが参加するように行っています。
毎週違う人が5分間、簡単な教えを分かち合い、そのことをもとに日常生活でどのように適用するか積極的な話し合いをします。
時には、だれが集会を導いているのかほとんど分からないことがあります。
大切なことは、イエス様が集会の中心であることが示されることです。
私たちのするすべての核心部分は、礼拝、賛美、イエス様についての学びです。

私のいとこのフランセスが私たちと一緒に生活していたとき、彼女の香港時代の親友が私たちのところに訪ねてきました。
フランセスにとって、彼女の友達がこの日曜日朝の集会を本当に楽しむことはとても重要なことでした。
私たちはみな、日曜日の集会が時々がさつになることに気づいていました。
そこで私たちはみなこう祈っていました。
「主よ、今週はあまりにも普通とは違うというようなことが起きないようにしてください。そんなことが起きたら、フランセスの友達には理解できないのですから。」

彼は教会に通ってはいませんでした。
クリスチャンでもありませんでした。
彼にとって「奇妙だ」とか、「感情的だ」と思えるようなことがあれば、彼はすぐに身をひいてしまうであろうことは私たちにも分かりました。

その日の集会は普通の仕方で、いくつかの歌を歌い、主を賛美して始まりました。
カールはいつものように熱心にギターを弾いていました。
彼が弦を切ってしまったのかどうか、私には分かりませんでした。
彼はほとんど毎回、弦を切ってしまうのです。
人々はみな参加し、ある人たちは歌をリードし、ある人たちは祈りを導きました。
神の臨在が本当に感じられました。
それから私の友人のリチャードが立ち上がりました。
私の心は沈みました。前にも同じことがあったからです。
彼が手を上げて神を賛美したとき、突然彼はぐったりし、床に倒れました。
そのことに気づかないようにする方法はありませんでした。
しかしだれも彼のことを気に留めず、礼拝し、賛美し、歌い、神に栄光をささげ続けていました。
私は不安げにフランセスの友達のほうを見ましたが、彼は明らかに神の臨在に圧倒されていました。

集会が終わった後、私は彼に感想を尋ねました。
彼はこう答えました。
「神の臨在がこんなにもリアルに示されるとは思いませんでした。」

礼拝や賛美について、私たちには分からないことも多くあります。
しかし聖書には、礼拝がクリスチャン生活の土台であることがはっきりと記されています。
古代のイスラエル人のために、「詩篇」と呼ばれる、礼拝と賛美の歌だけをまとめた一つの書があります。
また、新約聖書全体を通して、十二弟子たちや他のキリストに従う者たちが礼拝と賛美をしたことを記している箇所がたくさんあります。
私たちは、ダビデが主の前で礼拝と賛美のために自由奔放に踊ったとき、妻のミカルがダビデのことをどのように蔑んだか知っています。
このことのゆえに、神はミカルを不妊の女とされました。
ダビデの礼拝と賛美を愛する姿勢のゆえに、彼は「神のこころにかなう者」43とされました。

礼拝と賛美について理解するための入口は、ローマ12:1ではないかと私は思います。
礼拝とは、有名なワーシップソングをいくつか歌ったり、手を叩いたりすることだけではありません!
それは、被造物の創造主に対する唯一ふさわしい応答です。
神によってその心が触れられた人間が自然と行う、神への応答です。
それはおもに賞賛や賛美そのものを通して示すというよりも、神のために本当に聖別された生き方によって具体的に示されるものです。

ローマ12:1にはこう書かれています。
「兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」44
礼拝は、私たちがまず神にささげることを示すときにのみ、ふさわしいものとなります。
多くのカリスマ派の礼拝が深みのないものに見える理由の一つは、それは多くの人々の浅はかな生活を映し出すことができないからです。
集会では踊ったり、はねたりしながらも、職場では雇い主からお金を盗むかのように全力を尽くさずに手を抜いてもいいと考えるのは、矛盾しています。
イエス様は使徒ヨハネを通してこのことをはっきりと教えておられます。
「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」45
礼拝とはライフスタイルです。
それは、創造主の前にひざまずくという心を示すものです。
集会で表現する礼拝は、私たちの日常生活で表現する礼拝の一部にしか過ぎません。
私は10代のときに、このことを力強い仕方で体験しました。

私はある夏、ニューヨーク州北部にあるクリスチャンのキャンプ場で働いていました。
厨房での仕事はかなりきつく長時間に及ぶものでしたが、朝と夜に行われた集会の質の高さのゆえに、辛い思いは埋め合わされました。
それは主が私に多くのことを教えてくださり、聖霊の導きに従うとはどういうことかをさらに理解することのできた期間でした。

キャンプを終えた若者たちとキャンプを始める若者たちが出入りしていたある日のことでした。
厨房で働いていた多くの若者たちの友人たちがその日やってきたので、厨房にいたスタッフはみなどこかへ行ってしまいました。
私は夏休みの期間だけ奉仕しに来たイギリス人の学生でしたから、到着した若者たちの中に自分が知っている人は一人もいませんでした。
それで、厨房に一人残って後片付けをしていました。
大きな鍋やフライパンを洗って片付けていたのですが、ちょっと自己憐憫に陥りました。
孤独を感じていた私は、みんなと同じように友達が来てくれればなあと思っていました。
そんなことを考えていたとき、集会でどんな状況にあっても神を賛美し、礼拝することについて学んだことを思い起こしました。
それで、主に向かって歌い、賛美し始めました。

そのとき私は気づいていなかったのですが、町から到着したもう一つの集団が乗っていたバスの運転手が厨房に入ってきました。
彼は自分でサンドイッチを作って食べていました。
私は突然、厨房の向こう側から発せられた声を聞きました。
「君は何をそんなに喜んでるのかい?」
私は振り向き、その運転手を見つけ、彼に近寄っておしゃべりを始めました。
話を続けているうちに、彼に神の愛について分かち合うすばらしい機会が与えられ、このキャンプで主が私に教えてくださったすべての良いことについて話し合いました。
後で思い巡らしたとき、私が主を賛美、礼拝して主に栄光をお帰えししようとしていたことを通して、主が私とバスの運転手との間に来てくださり、 私たちを祝福してくださったことに気づきました。
大切なことは、儀式的な礼拝がいいか、現代的な歌を歌うほうがいいか、昔からの賛美歌がいいか、自然発生的な祈りがいいか、といったことではありません。
そうではなく、神のことばである聖書を通して、聖霊が私たちに何を教えてくださったかが大切なのです。

ダビデ王はこのことについて詩篇の中で述べています。
私たちのほとんどは、賛美をもって神の御前に近づくとき神の臨在を最も美しい仕方で感じることができることを体験しています。
賛美は王が入って来られるための扉を開きます。
それは詩篇24篇に具体的に記されています。

  • 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。
  • 永遠の戸よ。上がれ。
  • 栄光の王が入って来られる。
  • 栄光の王とはだれか。
  • 強く、力ある主。
  • 戦いに力ある主。

私たちは賛美を通して神の臨在に近づきます。
黙示録には、天が神への賛美で満ちていることが記されています。
24人の長老、主に仕える生き物、また私たちが完全には理解することのできないもの、それらすべての被造物が、永遠に、喜びをもって神を賛美、礼拝しています。
私たちは神に誉れと栄光をささげるとき、このような天における賛美の輪に加わる特権を得るのです。

しかし賛美と礼拝は、集会において神の臨在に触れるということだけではありません。
賛美は、私たちが選択して行うことです。
それは生き方です。
ピリピ4章には、私たちが「いつも喜んで」いるべきであることが書かれています。
それは単なる宗教的な決まり文句ではなく、神の臨在のうちを生きるようにとの招きなのです。

ネヘミヤ8:10には「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(新共同訳)と書かれています。
私はどうしたらいいか分からないとき、よく賛美によって自分の心を主に向けるようにしてきました。
それによって自分が新たにされ、励まされ、神から与えられたことをし続けることができました。
私は自分が疲れ果てていて、集会において何も貢献することができないと感じることも多くあります。
そのとき賛美と礼拝を通して、自分のからだとたましいが新しい力と活気をもって引き上げられていきます。
礼拝を通して神の臨在のもとに改めて近づくことは、私たちに絶えず与えられている特権なのです。

世界中で語られている言語は、わずか2つなのではないかと思います。
もちろん私は、英語とそれ以外の言語、という意味で言っているのではありません。
2つの言語とは、「賛美、礼拝」とそれに相対する「つぶやき、不満」です。
旧約聖書において神が人々に向かって最も嘆かれたことの一つは、彼らが理由を見つけては、つぶやいていたことです。
現在のクリスチャンもほとんど変わっていないようです。家でも、職場でも、残念なことにクリスチャンの集会でも、人々が集まるときに語る典型的なことばは、何が間違っているかを見つけては語る「つぶやき、不満」なのです。

私の出身国イギリスでは、天候がどれだけ悪いかについて語ることが国家的な娯楽となっています。
いつでも相手を建て上げようと努め、楽しく、前向きなことばを語るという考え方は、多くの人々にとって馴染みのないものとなっています。
しかし神のことばは私たちにこう教えています。
「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪の世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」46

もしこれが私たちに与えられた神からの召しであるなら、私たちは模範となる必要があります。
私たちにはいつでも賛美のうちに生きる機会が与えられていて、その結果は目を見張るようなものとなります。
私自身の生活においても、また他の人たちについて書かれていることを読んでも、どれほど賛美によって疑い、恐れ、失望、また沈んだ気持ちが追い出されていくかということを、私は何度も見てきています。
マーリン・キャロザ−ズが著した「獄中からの賛美」は私だけでなく何百万人ものクリスチャンたちにチャレンジを与えている本ですが、その本によって私が関わった何百人もの患者たちの人生が変えられていくのを見ました。

賛美は私たちが神の臨在のうちを生きることを助ける、というその基本的な性質について、ダビデ王は理解していました。
詩篇はダビデの賛歌に満ちています。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」47
この神の人が次のように言うことができたのは納得できます。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」48

主の臨在のうちに生き続けるというこのことこそ、私たちが神の民として集まるときに、私たちのすべての時間に浸透している必要があります。
「集会(会合)を持つ」という表現は誤ったものであるかもしれませんが、その言葉には、残念ながらいつもはっきりとは理解されていない意味が込められています。
つまり、私たちはイエス様とお会いするために共に集まる、ということです。
リーダーシップについて考えるときに問いかけるべきことは、私たちが共に集まるときも、一人でいるときも、 イエス様に私たちの生活のすべてにおいてリーダーとなっていただくために、どのように聖霊にゆだねるか、ということなのです。

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