第4章:現在の神の御国と、まだ実現していない神の御国

26 神の御国についての人々の期待感と、それを日常生活において今どの程度体験しているかということとの間には、緊張関係がはっきりと存在するようです。
神が非常に頻繁にいやしをなされるという事実は、今では憶測と見なされてはいません。
第三世界の様々な国々でなされている、並外れた神のみわざを報告している人たちが嘘をついていると思うのでなければ(このアメリカにおいて相当数の神のいやしのみわざを見てきた私のような者はなおさら)、神は何でもできるということについて疑う理由はほとんどありません。
もしきちんと立証された情報源をもとにした神のいやしについての報告を見たいと思うなら、FRCOG のレックス・ガードナー博士が著した『Healing Miracles (いやしの奇蹟、の意)』よりも優れたものはほとんどないでしょう。
しかし問題は神に何が「できるか」ではなく、神が何を「されるか」なのです。27
クリスチャンにとって何が普通に与えられるものであり、何が並外れた恵みの現れとしてのみ与えられるものであるかを理解するために、どのようにそれらを区別することができるでしょうか。

このことは私たちが「主の祈り」と呼ぶものの中に、はっきりと説明されていると私は思います。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6:10)。
天においては病も、死も、悲しみも、痛みもないことを私たちは知っています(例えば、黙示録21:4参照)。
この地における神の御国の出先機関としての私たちの務めの一つは、今天において完全に現れているその御国の支配が、私たちの置かれているこの地にもたらされるように積極的に祈ることです。
その御国が現され、この地にもたらされるには、それが「義と平和と聖霊による喜び」として示されるにしても、 悪霊の追い出しによるとしても、確かに戦いと忍耐が伴います。28、29
どちらも、等しく御国の臨在を現します。
どちらも、私たちがキリストを捕らえるために積極的に関わる必要のあることであり、この地においては主を追い求めるときにのみ得ることのできるものなのです。

クリスチャン生活は受身的なものではありません。
イエス様が私たちの義であられますが、私たちは「義を追い求める」ように命じられています。
イエス様が私たちの平和であられますが、私たちは「すべての人と平和を追い求める」ように命じられています。
「イエス様は私たちのいのち」であられることも同じようにはっきりとした真理です。
だからと言って、この地上での生涯においてイエス様を追い求める必要がないということはありません。
私たちがどれだけ神の御国を現すかは、どれだけ神のことばが私たちの心に根付くかにかかってきます。
神のことばはあらゆる時代のあらゆる人々に対して、同じように有効です。
しかし神のことばが私たち一人一人の生活の中で信仰に結び合わされるときのみ、実を結ぶのです。
ヘブル人への手紙の著者は以下のように述べています。

「神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。 ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。」30

イエス様は神の御国が激しく攻められ、そして激しく攻める者たちがそれを奪い取る、とはっきりと教えておられます。31
この地に現される上で不可欠な役割を果たします。
それは、祈りによる戦いという領域、また主が私たちに教えてくださった祈りに象徴されます。
私たちが祈るときに変わるのは、実際には神ではなく私たち自身です。
私たちが「御国が来ますように。みこころが行われますように」と祈るときでさえ、私たちは事実上こう祈っているのです。
「主よ、この祈りが現実化し、その答えが広まっていくことに私が役に立てるように、私を変えてください。」

おそらく、私(トニー)の家族での体験からこのことを説明することができるでしょう。
何年も前のことですが、私は妻のフェリシティーと共にアメリカで医学部の学生として選択研修を受けたことがありました。
そのとき、フェリシティーは非常な痛みをもたらすバクテリアに感染しました。
その頃私たちはいやしについて主からもっと学ぼうとしていたときでした。
そこで私たちは単に抗生物質を飲むのではなく(そうすることは確かに助けとなったはずでしたが)、主に祈るべきだと感じました。
主を求めていると、主は私たちに、感染したのは霊的なレベルの問題であり、私たちの生活における過ちがその直接的な原因であることをとてもはっきりと示されました。
そして主の赦しを求め、その罪から背を向けたとき、すぐに直りました。
数週間後、妻はまた感染してしまいました。
私たちは、なぜそうなったのか主に尋ねました。
すると、今回は罪のゆえではなく、主が栄光を現されるために起きたのだと主は示してくださいました。
主はフェリシティーに、何日の何時に痛みがなくなり、いやされると語られました。
まさにそのとき、主が約束されたことが起こりました。

どちらのときにも、私たちは神を求め、みこころがなりますようにと祈る必要がありました。
これは「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈りなさいという主の命令を行ったことを示すものではないでしょうか。

私たちの肉体に制限が与えられていることを聖書がはっきりと述べていることは疑いのないことです。
死のとげは取り去られましたが、死をもたらす要因は取り除かれていません。
私たちの一時的な肉体は、まだ永遠を身にまとっているのではないのです。
パウロがローマ8章で美しく描いているとおり、被造物自体も、虚無と滅びのもとに服従しているのです。
私たちの肉体も例外ではありません。

ローマ8:21にはこう書かれています。
「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
この節には、神の子どもたちがすでに栄光の自由を楽しんでいることが示唆されています。
この背景には被造物(つまり物質的な領域)があります。
このみことばを理解する一つの方法(これが唯一の方法ではありませんが)は、神の子どもたちがすでに物質的な領域において自由を楽しみ、それ以外の被造物はその後から自由を楽しむ、と理解する方法です。
それはあたかも、贖いの初穂である私たちが、まだそれ以外の被造物にはもたらされていない、来るべき世における力を体験しているかのようです。

この「滅びの束縛」は、確かにクリスチャンにも、未信者にも影響を及ぼします。
あるクリスチャンたちは、クリスチャンであるからといって、未信者よりもインフルエンザにかからないとは言えないと仮定しています。
私はこの考え方について、個人的には当惑しています。
神のことばに単純に従うことによって、私たちは性病から守られます。
そのような病をもたらすような生活を避けるからです。
また、神のことばを愛するがゆえに、聖霊の宮である自分のからだを大切にします。
つまり、私たちは喫煙したり、暴飲したりする見込みが低いため、多くの未信者の人々が屈してしまう病気から守られるのです。
私自身の教会における牧会の体験からすると、たいがい教会内で起こる不安や失望は、この世におけるものとは本質的に異なると思われます。
そのようなものは教会には存在しない、という意味ではありません。
すべての牧師は、不安や失望が教会にたくさん存在することを知っています。
しかし、人々がキリストの平安と喜びをより体験するようになるにつれて解決が与えられ、彼らの不安や失望が取り除けられていくのです。

地域における力強いいやしの働きが人々の健康にどれだけの影響を及ぼしたかについて、統計的な信憑性があるわけではありませんが、クリスチャンたちが記した資料から非常に興味深い事例を集めることができます。
約250年前、ドイツのある地方に、ブルームハートという名の敬虔な牧師がある教会の牧師となりました。
その地域にいた30年間、彼は力強いいやしと悪霊追い出しの働きを行いました。
その地域の人々は、ドイツ内の他のどの地域の人々よりも健康であったと言われています。

現代の科学的な時代にあってより検証できる事例は、おそらく、ジョン・G ・レイクという人の人生と働きでしょう。32、33
この驚くべきクリスチャンの起業家は、まず南アフリカに行くようにと神に召されました。
彼はそこで『アポストリック・フェイス・チャーチ』を設立し、その教会は急激に成長し、影響力を発揮しました。
それから彼は、1920年代後半にアメリカのワシントン州に戻りました。
彼はスポケーン市に拠点とし、5年間、力強いいやしの働きをしました。
この5年間に、医学的に直ったと検証されたいやしが10万件起こりました。
ワシントン州の公衆衛生担当の高官は「この地域全体にいる人々の健康は、ジョン・G ・レイクの働きの影響を受けてきた」と述べています。
どのようにしてこのようなことが起きたのかについては、ただ推測することしかできません。
暗やみの勢力が、何らかの仕方である一定の期間、特定の地域から退いたのでしょうか。
私たちはまだ聖霊がなされるすべてのことを理解しているわけではありませんが、聖霊が及ぼされる影響についてはそのいくらかを見ることができます。
聖霊の働きについて、私たちは聖霊のなさるすべてのことを見る(あるいは理解する)ことはできないが、風が木々に吹きかけるときに及ぼす影響を見ることができるように、 聖霊のみわざが及ぼす影響を見ることができると、イエス様ご自身が言われました。34

2コリント4:12 にはこう書かれています。
「死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」
この興味深い箇所は、クリスチャンとしてリーダーシップを取っているすべての人たちが知っている、 主イエス・キリストに従うことの一部として伴うプレッシャーについて述べているようです。
どういうわけか、私たちにのしかかるプレッシャーのゆえに、私たちは精神的、感情的、霊的、あるいは肉体的なレベルにおいて代価を支払います。
このことについてパウロはこう述べています。
「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」35
しかし、それは衰えていくことに屈服するというよりも、他の人々のために喜んで、従順に自らをささげることなのです。
パウロはこの箇所よりも前の箇所で、永遠に続くものが一時的なものよりもはるかに重要であることを強調した後、こう述べています。
「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、 それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」36
私たちの霊的な存在を通してだけでなく、私たちの肉体を通しても、神の本当のいのちが現されているのです。
これは『クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンス( C&MA )』の創始者であるA.B.シンプソン博士が過労と肺疾患によって倒れたときに彼に示された、偉大なる啓示でした。
キリストが彼のいのちであると気づいたとき、彼はいやしを体験することができました。
彼は働きの初期においてすばらしい働きをしてきましたが、その日以降、彼は以前にはなかった新しい力と活気を与えられ、働きを進めていきました。
その後のアメリカ、そして世界中におけるクリスチャン・アライアンスのめざましい成長は、この敬虔な神の人について多くを語っています。
復活のキリストの栄光と力についてA.B.シンプソンに示された啓示をルーツとするこの教団から、多くの霊的な巨人たちが生み出されていきました。
F.F.ボスワース(彼は1900年代初頭、アメリカとカナダ全土において多くのいやしのクルセードを行いました)やA.W.トーザー(多くの人々が近年における最も霊的な「預言者」の一人と認めています)は、 他の多くの有名な指導者たちの一部に過ぎません。

それでは、なぜ私たちは信じる者に与えられるこれほどまでに確かな「自由」(つまり、健康といやしの自由)を、しばしば体験せずに過ごしてしまうのでしょうか。これには多くの理由があります。

1.サタンの偽り
サタンは偽り者であり、偽りの父です。
もし「盗み、殺し、滅ぼす」37ために彼にできる方法があるなら、彼はとにかくそれを行います。
彼は私たちの思いの中で、またからだの中で偽りを語ります。おそらく教会において最もよく信じ込まれてしまっているサタンの偽りは、キリストの救いは私たちの霊的な必要に対してのみ効果がある、という偽りです。
サタンは、私たちの神が私たちを霊、たましい、からだ38のすべての面において完全な者にしたいと願っておられる、という栄光に満ちた真理を私たちが見ることができないようにしているのです。

2.神の御国はまだ完全には実現していない
サタンが神の民を束縛し続けていると言うだけでは十分ではありません。
私たちは今、神の御国に関する約束を不完全な仕方でしか体験できていないことを理解しなければならないと私は思います。
私たちは主が教えてくださった「みこころが天で行われているとおりに、地でもおこなわれますように」という祈りを、今もなお祈っているところなのです。
御国はまだ完全には実現していません。また、おそらく今の世を生きる私たちは、そのことを本当には期待していないでしょう。
この不信仰が第3の原因をもたらします。

3.教会における信仰と期待の低さ
何世代にもわたって明確な聖書的な教えがなされてこなかったことによって、人々は健康といやしについて非常に低いレベルの期待しかしなくなってしまい、それは今のキリストのからだ、教会においての標準となってしまいました。
さらに、現代における科学的な医薬それ自体がほとんど宗教のようなものとなり、ほとんどの教会が、医師の発言という祭壇に自発的にひざをかがめるようになってしまいました。
教会において不健康が蔓延しているのは不思議なことではありません。
医師は祭司に代わって、将来のことを予言するようになりました。
将来を予測できる医師の「神聖なる」能力はたいてい否定的な予言をもたらし、 そのためそれを受ける人々のうちに、たいてい失望と恐れが生じてしまうのです。

4.私たちは神を信じる者として、自然界における因果関係によって病気が起こると予期する必要はない39
私たちは神を信じる者として、 自然界だけでなく、聖霊が満ちておられるすべての領域において生きています。
病気の現実(または事実)に直面したとき、私たちは不安、失望、怒りといった自分の感情や、医学的な予測に屈服しません。
その代わり、弱さを感じるそのときに、信仰によって神を呼び求め、みことばにある約束を握りしめることが私たちの正しい姿なのです。
神が私たちの健康を完全に回復してくださるという積極的な祈りをとして、私たちは暗やみの力に立ち向かうことができるのです。

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