第3章:教会と神の御国

教会を再構築するためには、まず、新約聖書に書かれている神の御国の概念を理解しなければなりません。
イエス様は群衆に向かって何度もこう言われました。
「天の御国とはこのようなものです。」
山上の説教は、イエス様が彼に従う者たちに対して、彼らの生活において示すことを望まれた原則をまとめたものです。
イエス様はその公生涯を神の御国について教えることによって始められ、そして使徒1 章に書かれているように、 復活してから昇天するまでの間に改めて「神の国のことを語」ることによって終えられました。25

私たちは「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(詩篇24:1)ことを理解する必要があります。
すべては神のものなのです。
そして、神はすべてのものを贖いたいと願っておられます。
ローマ8章に記されているように、被造物でさえも神の子どもたちと共に贖われることを待ち望んでいるのです。
いのちあるものすべてが贖われる必要があります。
私(トニー)が医療に関わっていたとき、私は「医療における神の御国」が贖われるように貢献する責任を負っていました。
もしあなたが法曹界、ビジネス、社会福祉に従事していたり、コーチ、教師、あるいは学生であったりするなら、その分野を神の御国のために贖うことに貢献する機会が与えられているのです。
それは神の御国のルールを他の人々に押し付けることを意味するのでしょうか。
もちろん違います!
イエス様はこう言われました。
「私の国はこの世のものではありません。」

私たちは「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という祈りを生きるのです。
職場で権力闘争をしたり、人々に対して高慢な態度で命令したりするのではなく、敬虔な生活を通してこのことを示します。
モザンビークの首都マプトで宣教しているローランドとヘイディ・ベイカーは、モザンビークの内戦で孤児となった1000人の子どもたちのために、 彼らの人生と家を提供しました。
彼らのこの犠牲を通して、約3000の教会が生み出されるという非常に大きなチャーチ・プランティング・ムーブメントが起きました。
彼らの働きは、モザンビークでそれまで何年にもわたってなされてきた伝統的な宣教に匹敵するほどに、神の御国の拡大に貢献しています。

トレバーとマリオン・グリフィス夫妻は、イギリスのプリマスに住んでいます。
彼らは医療面における助けとは異なるタイプの助けを必要とする患者たちが、 地域にいるクリスチャンたちのボランティアによって助けを受けることができるプログラムを設立しました。
例えば、家に閉じこもっているお年寄りが買い物に出かけることができるように、だれかがその人に付き添います。
ここでも神の御国が拡大され、地域教会、つまりキリストのからだが活動していることが、日曜日朝の礼拝にひけをとらないくらいに、人々に認知されているのです。
今ではそのプログラムは医療の領域をはるかに越えるまでに発展し、 またイギリスの様々なところでそれがモデルとした、似たような働きがなされています。

教会とは共同体としての神の国の民のことです。
共同体とは必ずしも一つ屋根の下で暮らすことではなく、私たちの周りにいる人々の必要に積極的に関わっていくことを促すような関係に基づいて生活を共にすることを意味します。
新約聖書に描かれている「エクレシア(召し出された者たち)」としての教会は、第一ペテロの手紙の2章に記されている、特異な(そして特別な)人々のことです。
アメリカはあまりにも「自由の国」であるがゆえに、人々はだれによっても、キリストにある兄弟姉妹によってさえも、自分の自由が侵されることを望まなくなってしまいました。
「あなたが私に対して何も要求しない限り、私たちは家族です。 私が自分の時間、自分の財産、自分の趣味、自分の必要に対する自分の権利よりも、あなたやあなたの必要を優先するなどとは、決して期待しないでください!」

新約聖書に描かれている教会生活を理解するためには、私たちは神の御国という視点からそれを見なければなりません。
初代教会の人々は世界をひっくり返そうとしていました。
彼らは選挙や軍事力によってそうしたのではありません。
それはあふれ流れる、愛の力によってなされたのです。
彼らは柔和な者たちが地を受け継ぎ、善によって悪に打ち勝つことができることを証明したのです。

次へ