第2章:聖域にメスを入れよう!

日曜日には絶対に映画を観に行ってはいけません。
食事の前に手を洗わず、祈りもしないなら、神はあなたに罰を与えるために腹痛を与えられますよ。
女の子はスカート丈をひざ下10センチ以上にしなければいけません。
男の子は髪の毛を肩まで伸ばしてはいけません。

皆さんはこんなことを聞いたことはありませんか。
このような決まりと、イエス様を中心としたクリスチャン生活と、どうやって結びつけることができるでしょうか。
キリストは、弟子たちが安息日に麦の穂をつまんで食べることを気に留めなかったようです。
食事の前にきよめの洗いをするかどうかも問いませんでした。
イエス様を表す絵は、すべて長髪のイエス様を描いています。
まあ、その他にも言いたいことはいくらでもあります。
とにかく、イエス様は宗教的な上品さをそれほど求めてはおられませんでした。

私たちはどのようにしてこれほどまでに離れてしまったのでしょうか。
聖書の無謬性についていのちをかけるほどの人たちが、あまりにもイエス様の愛を欠いているために、イエス様の再臨が千年王国の前なのか後なのか、霊的賜物が使徒の時代以降にやんだのかどうかといった「重要課題」について議論し、 キリストにある他の兄弟姉妹たちを喜んで(時には怒りをもって公に)切り離すのはなぜでしょうか。

なぜクリスチャンスクールでひざ上3センチ以上のスカートは着てはいけないという決まりがありながら、『プレイボーイ』誌が誇るミニスカートのチアリーダーたちを教室に招き入れるのでしょうか。
私たちはどこかで大事なことを把握し損ねています。
私たち福音派は、昔のパリサイ人たちの子孫となり、クリスチャン生活を外面的なものと見なし、内面的なものを無視しているのです。
イエス様はまさにこう言われました。
「(あなたがたは)ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。」9
いつからキリスト教は、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する10ことではなく、「これをせよ、それはするな」という決まりによって裁かれるようになったのでしょうか。

すべては私たちが信仰を吟味するときに用いるパラダイムによります。
もし私のサングラスが緑色にコーティングされているなら、私にはすべての物が緑色に見えます。
もし私のキリスト教が外面的なものと宗教的な規範によってコーティングされているなら、 私はその視点から他のクリスチャンたちを裁きます。
なぜなら「人はうわべを見るが、主は心を見る」からです。11

おそらく私たちが外面的なものを見るのが得意なのはこのためです。
私たちの集会はパフォーマンスのようです。
私たちは集会に行くとき、だれに会いに行くのでしょうか。
私たちの礼拝はコンサートのようです。
説教は昔の討論会のようです。
私たちは野球の試合を観に行くような感じで教会に行きます。
それは非常に忙しい生活の中での幕あい劇のようであり、ストレスに満ちた生活にささやかな安らぎを与えてくれます。
しかし、それによって私たちの生活は変わるのでしょうか。
私(トニー)は、偉大なメソジストの指導者、サムエル・チャドウィックが確かこう述べたのを思い出します。
「聖霊によって導かれているのではなく、人間によって管理されている教会では、奇蹟は起こらない。」

ジョージ・バーナは『The Second Coming of the Church 』の中で、おもな社会的な指標において福音派とアメリカ社会の一般の人々との間に概して違いはないと書いていますが、私たちは教会が正しい道を歩んでいるのか心配する必要があります。
中国やスーダン、また世界中のその他の多くの国々でクリスチャンたちは彼らの信仰の「ために」投獄され、死んでいるのに対して、西洋の教会は私たちの(弱い)信仰の「ゆえに」死にかけています。
何が間違っているのでしょうか。

それは、私たちが何に焦点を合わせているかに帰着します。
キリスト教とは生き方です。
それは、もしイエス様があなたの立場に立っているならなさるであろうことを生活の中で行うことです。
実際、イエス様はあなたと共におられるのです!
それ以外のことは、すべて宗教的なシステムでしかありません。
それはいわば「教会教」です。
私たちはイエス様を喜ばせることではなく、教会を喜ばせることをし続けていることに気づかされます。

パウロは、敬虔という形を装いながらもその力を否定するものに対して注意するように警告を与えています。12
見た目には人々を救いに導くことができても、人々の生活を変える力を持たないキリスト教は、おそらく、全くキリスト教とは異なるものでしょう。

似たような質問を教会にも適用することができます。
あまりにも人間によって管理され、自己中心的であるがゆえに、イエス様もほとんどそこに姿を現すことができないようなものが、 キリストのからだ 13、真理の柱、また土台 14、そして御使いたちがはっきり見たいと願っているもの15となり得るのでしょうか。
トーザーは非常に適切にこう述べました。
「教会は立憲君主制のようであり、イエス様には地位が与えられているが、権威が与えられていないのでどのような決定をも下すことはできない。」16

もし神の御国とは最も単純なレベルにおいてイエス様が王であられるすべての場所を意味するのであるなら、私の生活は神の御国をどれだけ示しているでしょうか。
私にとって、そして一人一人のクリスチャンにとって、神の国とその義とを第一に求める17とは何を意味するのでしょうか。
牧師であることは女優や弁護士であることよりも、本質的な意味においてより霊的なのでしょうか。
政治家になるよりも宣教師になろうとするほうがより霊的であると、自動的に仮定することができるでしょうか。
スポーツチームのコーチになる代わりにユース牧師になる、というのはどうでしょうか。
果たして、どちらのほうが若者たちにより大きな影響力を及ぼすことができるでしょうか。

映画『炎のランナー』のある力強いシーンで、エリック・リデルは敬虔な信仰をもった妹から、宣教師となって中国へ行くという召命を果たすためにオリンピックのことを忘れなさいと、チャレンジを受けます。
エリックはこう答えました。
「しかし、神は私が速く走れるように造られた。」
事実、彼はとても速く走ることができ、 まず練習中に100ヤード走の世界新記録を樹立しました。
それから、日曜日にレースのあった100ヤード走ではなく、違う日に行われた440ヤード走に出場しなければならなかった彼は、 そのための練習を積んではいなかったにもかかわらず、その種目で世界新記録を打ちたてました。彼が自分の良心を犯さないように日曜日に走ることを拒み、キリストに従ったことを、全世界が注目したのでした。

私たちのパラダイムは、私たちの生活すべてが神への奉仕であると見なすところにまで転換される必要があります。神が私を医師となるための訓練を受けるように召されたとき、私はそれによって、伝道師となるために医学部をやめた私の友人のニック・カスバートよりも、 霊的に劣る(あるいは優れた)者となったのでは全くありません。神の目には、二人とも同じ責任と同じ奉仕の機会が与えられているのです。

同じように、私が教会にいるときのほうが、病院で患者を診察しているときよりもより霊的である、などということはありません。
私の経験では、もし私が多くの教会で普通になされているように偽善と批判主義に染まってしまうなら、私は教会にいるときのほうが霊的でなくなってしまうかもしれません。
私たちは時に、会社の役員会で同じことをするなら未信者の人たちが恥ずかしく思うような仕方で、教会の執事会でイエス様の御名によってお互いを傷つけ合います。
私たちクリスチャンは、映画『ウォール街』に出てくるビジネスマンたちに、一つか二つ、教えてあげられることを持っているのではないかとさえ思えます(訳注:皮肉を込めてのコメント)。

普通のクリスチャンが職場、学校、また近所において、一人もキリストに導いたことがないという事実を、どうして私たちは普通のこととして受け入れてしまうのでしょうか。
ドーソン・トロットマンが著した小冊子『Born to Reproduce (生み出すために生まれる、の意)』18の 題名が、 普通のクリスチャンが多くの人々をキリストに導くことではなく、大家族を賞賛するための宣伝広告であるかのように教会員たちが受け止めるほど、彼らを弱々しくさせているのは何なのでしょうか。
多くのクリスチャンたちが声を出して祈ることさえできず、 ましてや「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか」19というイエス様の問いかけに従うことなどとてもできないほどになっているのは、私たちが教会でどんなことをしてきたからでしょうか。

イエス様が本を書かれず、また神学的な専門書を一冊も書き残されなかったのは興味深いことです。
その代わり、イエス様は私たちに模範を示されました。
イエス様は神のことばとなられました。
私たちは聖書を神のことばと見なしていますが、しかし聖書自体がイエス様を指し示しています。
イエス様はヨハネ5:39でこう言われました。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」

私たちは神学校の学生たちがフルタイムの働き人となるように彼らを整えるために、組織神学についてのコースを用意します。
イエス様は十二弟子たちと3年半共に生活することによって、彼らが生涯イエス様に仕えることができるように整えられました。
パウロが次のように言うのも不思議ではありません。
「古い方法は死によって終わります。新しい方法によって聖霊はいのちを与えられます。」20(訳注:英語NLT 訳の直訳)

キリスト教界は、おおよそコンスタンティヌス帝の時代以降、信徒に対する階級として専門の聖職者が位置づけられたことによって悩まされてきました。
暗黒の中世の時代を通して、信徒と聖職者とははっきりと区別されるようになり、意図的に信徒が聖職者の支配のもとにとどまるように、 礼拝は現地の言葉で行うことはできなくなり21、聖書の翻訳も許されませんでした。
このモデルにおいては、祭司は信徒と神との間に立つ仲介者なのです。
プロテスタントのモデルもほとんど変わりませんでした。
聖職者たちは結婚することを許され、聖書も普通の言葉に訳されるようになりましたが、信徒はなおも権威ある立場に立つことはできず、専門的に(いわゆる「フルタイム」と呼ばれる)働き人となるための訓練を受けた人たちに実際の権力がゆだねられました。
取税人や漁師たちが最初の使徒、また教会指導者となった姿とは、どれほどかけ離れていることでしょうか!

教会が最も爆発的に成長したのは、信徒たちが教会をリードしたときです。
実際のところ、新約聖書には信徒という人たちも存在しません。
例外があった可能性としては、黙示録2章に記されているニコライ派が犯した間違いです。
それは教会の専門的な指導者たちと、権限を剥奪されていった信徒たちの分離が起こり始めていたことを示したものであるかもしれません。22
それと同じことが教会の歴史を通じてなされてきました。
20世紀は世界中で起きたペンテコステ運動の成長から、過去50年間の中国の迫害下の教会の驚くべき拡大に至るまで、多くの例に満ちています。
教会は指導してくれる聖職者を必要とするという手かせ足かせから解放されるとき、 突然、普通のクリスチャンが神の召しに応答し、自分にできるすべてのことを行い、その召しを全うすることができると気づくのです。

アメリカに移ってきてから最初の10年のほとんどの期間、私は妻と共に平均的な教会に行って席に座っていましたが、長いすを埋めている人々に与えられている才能が驚くほど無駄にされていることに私たちは気づきました。
大会社の指導者たち、ビジネスに関するセミナーをしている人たち、学校や工場を始めた人たちは、確かに日曜学校のクラスを導くための基準を満たしていると見なされていません。
他の教会でリーダーだった人たち、聖書学校に通ったことのある人たちでさえも、新しい奉仕をするために派遣されることなく、会衆の中にとどめられ、賜物を用いることがありません。

ヘブル人への手紙の著者が彼らにこう言ったのも不思議ではありません。
「あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」23
私たちは会衆の人々を幼児として取り扱うことによって、彼らが幼稚なままでいるように助けてきました。
今の状態では、もはや普通のクリスチャンは、普通の3歳の子が食卓に出される鶏肉を正しく分けることができるほどには、真理の言葉を正しく分析することができないのです。
クリスチャンになって最初の2年間が過ぎると、普通のクリスチャンは新しい人を教会に連れてくるのをやめてしまい、だれかを主に導くことは、たとえあるとしてもごく稀にしかありません。
私たちは、成長のためのすべての権力と責任を専門の働き人の手にゆだね、 アマチュアたちは日曜日に行われるショーに参加するだけで平日は好き勝手なことをして生きるというシステムによって、永久に幼稚なままでいるようにという処罰を自分たちに課しているのです。

教会で力を発揮する場をほとんど見出すことができない献身的なアマチュアたちが、神から与えられた賜物を用い、ビジョンを達成するために、 『バイブル・スタディー・フェローシップ』や『フルゴスペル・ビジネスマンズ・フェローシップ・インターナショナル』といったパラチャーチのグループに目を向けるのは驚くべきことではありません。
私(トニー)は、私たちの大学にあった『キャンパス・クルセード』や『インターバーシティー』のグループが、 日曜日の朝と水曜日の夜に特別な建物で行われていたもの(訳注:地域教会)よりも、しばしばより本当の教会であると感じられたことを覚えています。

ではなぜ、このような大学生の集まりが本当の教会であると認め始めるとき、大きな波紋を及ぼしたのでしょうか。
教会は聖別された場所の中で行われ、聖別された人々によって指導されなければならない、という聖域に私たちはうっかりとメスを入れようとしてしまったのです。
特別な建物について言えば、教会は最初の2、3世紀の間、一週間にわずか数時間しか用いられないもののために多くのお金をつぎ込むことなく成長したのではなかったでしょうか。
考えてみると、共産主義政権の迫害のもとにある教会も同じことを証明しているのではないでしょうか。

教会は最初の数世紀の間、確かに建物や多くのフルタイムの指導者たちを持たずに、非常によい働きをしました。
リーダーとなるための資格には、必要に応じて、自分の経済的な必要は自分でまかなうことが含まれていました。
彼らに約束されていたことは、専門の働き人としての特権や人々からの賞賛ではなく、迫害に会うということだけでした。
訓練は知的な質問に答える神学校ではなく、実社会での厳しい体験の中でなされました。
キリストの単純さは軽蔑されるのではなく、価値あるものと見なされました。
聖霊の力は説明されるのではなく、現れることが期待されていました。

おそらく作り話だと思いますが、ローマ教皇に連れられて、栄華に満ちたバチカンの様子を見せられたトマス・アクィナスについての話があります。
「さて、『私たちには金銀はない』とは言うことはわれわれにはできないね」と教皇は言いました。
するとトマスは叫んでこう言いました。
「『ナザレのイエス・キリストの御名によって、立って歩きなさい』と言うこともできません!」
今日の西洋の教会と第三世界の教会との違いについても、ほとんど同じことが言えそうです。

普通のクリスチャンが、ウォッチマン・ニーが『キリスト者の標準』24に描いたような教師となるときが来ました。
私はこの本を初めて読んだとき、それまでの自分がクリスチャンとして経験してきたことが、どれほど異常であったか、目が開かれる思いがしました。
心から神の国とその義とを求めるクリスチャンがほとんど生み出されていないキリスト教の行いを、なぜ私たちは標準的なこととして受け入れ、あるいはそれを守ろうとさえするのでしょうか。
それではイエス様の教えをひっくり返して、まずそれらのものを自分たちに加え、 それから神の国を求めようとすることになってしまいます。

それでは、神の御国とは何でしょうか。
そして、教会はそのどこに位置するのでしょうか。

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