5:分散型社会におけるヒトデ型教会の役割
ヒトデ型教会のススメー現代日本教会の閉塞感を打破する試みとしてー
『福音主義神学』(第38号)より転載:宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男
「ウエブから無償のIP電話ソフトをダウンロードし、パソコンにインストールするだけで、世界中のSkypeユーザーと無料で音声通話が楽しめるし、条件によってはビデオチャットもできる」と、従来の電話に慣れている年配の方々に説明するのは難しい。
それと同じように、NTTにたとえられる集権型のクモ型教会が、スカイプにたとえられる分散型のヒトデ型教会を理解するのは容易ではない。
しかし、本論では、クモ型教会よりも、むしろヒトデ型教会の方が、ステパノの迫害以降の初代教会の特質と共通項が多いし、ヒトデ型教会の拡大が現在の閉塞感を克服する道の一つだと論じてきた。
それでは、クモ型教会はヒトデ型教会に切り替わるべきだろうか。
クモ型教会のヒトデ型教会への対応には、3つのタイプがあると考えられる。
第1に迫害、第2に棲み分け、第3に支援である。
クモ型教会がヒトデ型教会に変わるのはハードルが高いし、変わるとしても長い時間がかかる。
もちろん例外はあるが、一般的には、あえてそれに挑戦するよりも、第3の「ヒトデ型教会を支援する道」を選ぶ方が現実的だと思う。
ヒトデ型教会を支配することはできないが、クモ型教会が蓄積してきた神学的研さんや歴史的教訓などのリソースを、シンプルに要約してヒトデ型教会に提供することにより、新しいムーブメントの拡大を助けることができる。
クモ型教会は、ヒトデ型教会の5つの足のどれかを、現在の集権型組織の中に取り入れることにより、組織を活性化したり外向きにしたりすることができる。
争ったり無視したりしないで、互いの特徴を認めて学びあい、支えあう道を模索することが、神の国の拡大のために必要である。
ただ、クモ型教会が、「ヒトデ型教会も、時が経つにつれてクモ型教会に変化する」という前提を持ち、先輩としてヒトデ型教会に指導や警告を与えよう、という態度で接するならば、ヒトデ型教会の分散型社会における特別な役割を見失ってしまう恐れがある。
初代教会も歴史上の宣教ムーブメントの多くも、初めは分散型だが、次第に制度化されて、中央集権型の教団に段階的に変化していくという経緯をたどった。
教会の制度化を、カリスマリーダーの主導する萌芽期から組織化段階(セクト)、最大効率の段階(デノミネーション)、制度的段階(チャーチ)を経て、解体期へと進んでいくライフサイクルだと理解したり、あるいは、霊的主観的パラダイムと人為方策的パラダイムの両極を行き来する振り子の一方の振り幅だと捉えたりする人たちがいる#14。
人々が神の国ではなく人間の帝国を求めるようになったときに、教会は内向きになり、ムーブメントは終焉した。
ところが、本論で紹介したヒトデ型組織には、これらのタイポロジーでは分析できない側面がある。
それは、現代社会の構造そのものが分散型になっているという点だ。
現代人は、歴史上人類がこれまで1度も経験したことのない分散型ネットワークの文脈に生きている。
インターネットとその土台の上に展開する無数のネットワークは、革新的な動きを引き起こしている。
たとえば、ブラフマンとベックストロームは、無料のオンライン百科事典の「ウィキペディア」について解説する。
ブリタニカ百科事典は、博士号を持つフルタイムの専門家が執筆したり編集したりしている。
ところが、ウィキペディアの場合は、ウェブサイトにアクセスした一般のユーザーたちが、自由に書き込みをしたり削除したりすることによって編集作業を行なっている。
科学雑誌「ネイチャー」の調査によると、ウィキペディアとブリタニカ百科事典の内容は、ほぼ同じぐらい正確なのだそうだ#15。
そうであるなら、この流れは不可逆的だと思われる。
ウェブサイトにアクセスするだけで、無料で、質の高い、正確な記事を見ることができるなら、図書館に出向いて分厚い百科事典をめくる人が激減するのは当然だ。
ヒトデ型組織の4本目の足である既存のネットワークは、インターネット上に溢れている。
社会構造そのものが分散化していることが、それに対応する分散型組織の有効性と継続性を担保している。
社会構造が分散化しているだけではなく、開かれた組織に招かれた人たちの意識が変化し、分散型の文化が定着している。
ブラフマンとベックストロームによると、彼らは「自動的にその組織に役に立つことをしたがる」ようだ。
たとえば、先ほどのウィキペディアでは、ユーザーが自由に書き込みできるにもかかわらず、無軌道な記事は稀であるばかりか、圧倒的多数の寄稿者は、実際に役に立つ記事を書いている。
その中には、専門家も含まれている。そればかりか、ボランティアのウィキペディア警察を名乗るユーザーさえ存在する。
ブラフマンとベックストロームは、次のように主張する。
「基本的に人間が善良な存在だということは、ウィキペディアが証明している。」#16
インターネットの発達によって、人間の善良さだけでなく、邪悪さまでもが増幅されて表現されている事実を見るとき、ブラフマンとベックストロームの「性善説」に全面的に同意することはできない。
しかし、もし人間の邪悪さの表現を、分散型社会の中では、十分に管理することができないのだとするなら、究極的には、規則で縛るのではなく、元来人間の心の中に刻まれた規範とも言える良心が機能することに期待するしかない。
ウィキペディアに書き込みをするユーザーたちが、客観的で、正確で、わかりやすい記事を書こうと心を砕いていること、また、アルコホリックス・アノニマスの参加者が、秘密を守った上で、互いを支えあおうとしていることは、人間の善良さの証明ではなく、共通の規範に従おうとする意識が存在することの証明である。
そこでは、本音で善良に生きるという規範意識を持つ人たちが、相互に信頼して支えあうという分散型の文化が定着している。
そういう環境の中では、聖霊によって良心を清められ、喜んで隣人に仕えようとするクリスチャンの生き方が、信頼を勝ち取っていく土壌がある。
ヒトデ型教会は、分散化した社会構造の中で、分散型の文化に生きる人々に対して、神の自己犠牲の愛を証しする「歴史的な役割」を担うのである。
『福音主義神学』(第38号)より転載:宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男