4:社会の中で神の民が果たす役割
先日、「気仙沼市本吉町民生委員児童委員協議会・浜松市中区民生委員児童委員協議会・交流研修会」に参加させていただいた。浜松市役所で行なわれた会議には23万人の人口を擁する浜松市中区の区長も挨拶に来られた。
会議を仕切ったのは静岡県西部地域の曹洞宗青年会組織だった。彼らは普段から民生委員・児童委員として地域に仕えてきた。また、昨年の震災以降は、宮城県気仙沼市や岩手県遠野市で援助活動をしたり、被災地と地元を結びつける橋渡しの役目をしてきた。地道な努力を続けて、行政機関や住民組織と深い信頼関係を築いてきたのだ。
このような地域に根ざした活動にクリスチャンのプレゼンス(存在・影響)が全くなかったことに日本の縮図を見る思いがした。民生委員とは、社会奉仕の精神で常に住民の立場になって相談に応じ、必要な援助を行い、社会福祉の増進に努めることを任務とする民間の奉仕者だ。こういう領域こそ、神の民が献身すべき場所なのではないだろうか。
主イエスは住民の立場に立って人々を助けられた。彼は、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1・9参照)として世界に派遣された。それは、霊と心とからだによって成り立つ「人」を包括的に照らすためだった。彼は、ただ霊を救って永遠の生命を与えることだけではなく、病を癒し、貧しい人たちを顧み、家族の関係を回復し、リーダーたちの良心にチャレンジされた。主イエスの関心事は、霊的救いに限定されなかった。
父が御子イエスを光として世に派遣されたように、イエス様も弟子たちを光として世界に派遣された。マタイの福音書5章16節によると、弟子たちの光とは「良い行ない」のことで、人々がそれを見て天の父をあがめることが期待された。「あなたたちの存在自体がこの町の祝福です。神から与えられた力と愛と知恵によって、私たちに対して良いことをしてくださいました。それで、この町は平安になりました。あなたがたを遣わされた父なる神をあがめます。」そう住民が告白するようになることが派遣の目的だった。
派遣された弟子たちは、迎え入れてくれる人の家に到着すると、まず平安を祈った。平安とはヘブル語の「シャローム」の訳だが、個人の内面の平安だけではなく、他者との関わりにおける平和も意味する。さらには、神が世界を創造された時に人に与えられた「満たされた人間の状態」を表す。神は、個人の霊的救いに留まらず、社会や自然や霊的領域を「満たされた状態」にしようとしておられるのだ。主の弟子たちもまた、世界の光として派遣され、人々に平安をもたらしたのだ。
シャロームを受けた家の主人は、自分自身が神と結びつけられただけではなく、キリストの自己犠牲の精神に基づく共同体、すなわち、お互いの存在を喜び合い、何事も分かち合い支え合う共同体を形成するための“触媒”として用いられた。大宣教命令が、個人の弟子化だけではなく、すべての共同体の弟子化を含んだものであることに留意すべきだ。
使徒時代には、クリスチャンは金を求めず、自分の家族以外の貧者、孤児、囚人、病人などを自発的に助けた。その寛大さが人々を惹きつけた。
「ローマの上流社会は性的にも堕落しており、その結果生まれた子を貴族たちは箱に入れてローマ七つの丘といわれる丘の上に捨てた。捨てられた赤ん坊を食べにたくさんのオオカミが集まってきたといわれる。キリスト教会はこういう孤児を引き取った。『キリスト教徒は、人間の肉を食い血を飲む』という噂が立ったが、それでも教会は孤児たちを守った。ローマの下層民の間には次第にこうしたキリスト教徒の生き方に対する感動が広がっていった。」(「高尾講座」参照)
神の国の王に従って隣人を愛する「敬天愛人」のライフスタイルが、世界を照らしてシャロームを与える神の民の標識である。それは、講演会やコンサートでは十分には伝わらない。幼児虐待や高齢者の孤独死、引きこもり、さらには地震や津波を想定した防災訓練など、身のまわりに課題が山積しているときに「世界の光」(マタイ5・14)として機能するとはどういうことなのか。もう一度立ち止まって熟考する必要がある。
『2012年4〜7月号の「風知一筆」』より転載
宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男