3:日本宣教の第四の機会

大々的な日本宣教の機会が教会史の中で3回あった。第一は戦国時代、第二は明治維新期、第三は昭和の敗戦後であった。

戦国時代の日本人は、当時画期的な武器だった鉄砲が欲しかったのだが、その輸入にはもれなく宣教師が付いてきた。それで初めは宣教師と宣教活動を受け入れていた。結果、短期間に多くの日本人が回心した。ところが自前で鉄砲を作ることができるようになり、国内が平定されると、「伴天連追放令」を発して宣教師を追い出した。また、改宗した日本人を弾圧した。

明治維新のときには、欧化政策が採られていたため、欧米の教師たちを受け入れた。その多くは宣教師だった。黙認された宣教活動を通してプロテスタント教会の礎が築かれた。しかし、行政組織が整備され、学校が全国に設置され、軍隊が強化され、憲法や教育勅語が発布されると、お雇い外国人は必要なくなった。その後、軍国主義化、国粋主義化の流れが定まるに従い、キリスト教は排撃されるようになった。

昭和の敗戦後の日本には、外国の支援が必要だった。米国を始めとする欧米各国からは多額の経済援助と共に多くの宣教師が来日し、積極的な宣教活動を展開した。キリスト教はブームとなり、多くの教会や教団が設立された。しかし、日本が独立して経済援助が必要なくなると、多くの信者が教会を離れた。

三期とも、日本人が欲しかったのは鉄砲や教師やお金であって、キリスト教ではなかった。欲しいものが手に入ればキリスト教はお払い箱になった。このような日本人の対キリスト教観を、櫻井圀郎氏は「+αのキリスト教」と表現された(「「日本の教会」の昨日・今日・明日」、『宣教学リーディングス:日本文化とキリスト教』参照)。そして宣教する側も、ライフスタイルの変革という本質ではなく、「+α」つまりオマケで勝負しようとした。

こういうアプローチは、歴史的な転換期だけでなく、今日でも広く為されている。コンサートや講演、英会話や料理教室などで人を集めようとするやり方だ。そういうプログラムに集まった人たちに語るメッセージもまた、本質的とは言い難い。たとえば「イエス様を信じるなら悩みがなくなって幸せになります。」などというメッセージがそれだ。

けれども実際は、敬虔に生きようとするなら、回心後の方が多くの試練に会う。むしろ「クリスチャンになったら、もっと多くの苦しみに遭うかもしれません。しかしイエス様はあなたを一人にはなさらないので、苦難の中でも天命に従って隣人を愛することができます。また、苦しみを通して練られた品性を身に付けることができます。」と言うべきだ。

さて、被災地において教会は、敬天愛人(神を敬い人を愛する)の生き様を一貫して提示しているだろうか。震災前は「会堂に人を集めること」に腐心していた教会が、今回は方向を転換して、生活の場で寄る辺なき人たちに仕えた。そういう「集めずに仕える教会」を人々は信頼したのだ。

しかし、日本の教会に深く染み付いた「集める傾向」に意識的でなければ、やがて被災者を生活の場から引き抜いて、自分たちが作ったプログラムに彼らを招いてしまうようになる。そんなことでは、「自分たちの勢力拡大のために援助したのではないか?」と誤解されかねない。見返りを求めずに出かけて行って隣人に仕えることが神の国のライフスタイルだということが、被災した人たちに理解され、共感され、さらに彼ら自身によって実践されるようになる必要があるのだ。

いったい、援助が終ったときに要らなくなるようなキリスト教って何なのだろう。イエスが世界にもたらそうとされたものは、十字架にかかられるという自己犠牲の愛に基づいた「変革された被造世界」ではなかったのか。

「援助」という「オマケ」、または導入がもたらす一時的な義理人情ではなく、「仕えるライフスタイル」という「本質」が伝わり、人々が永続的に生き方を変えるようになることが何よりも大切なのだ。集会に出てもらうことで義理を返してもらい、はかない夢を見た後で元の木阿弥になるパターンを繰り返してはならない。今は、大々的な日本宣教の第四の、そして最後の機会なのだ。

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『2012年4〜7月号の「風知一筆」』より転載
宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男