Ⅲ. 日本の教会への適用

Ⅲ. 日本の教会への適用

前章では、ルカの福音書第10章の七十弟子派遣のエピソードから、派遣された町に対して、弟子たちがどのようにコミュニケーションを図ったかを概観した。
その内容は、第1に、模範、育成、派遣と続く実地訓練の文脈でなされたこと、第2に、平安を祈ったこと、第3に、一緒に食事をしたこと、第4に、病人を直したこと、第5に、神の国について宣言したことだった。
本章では、それらの要素を、日本宣教の現場にどのように適用できるかを検討する。

 

1)実地訓練の導入

病院で、新人看護師に注射を打たれて痛い思いをしたことがないだろうか。
そういう場合はたいてい、あせる新人看護師を見守るベテラン看護師や看護教員が後ろで控えている。
いくら教室でやり方を習っても、注射技術を習熟させることはできない。
場数を踏むしかないのだそうだ。新人看護師が失敗することがわかっていても、現場で実地訓練をするしか上達の道はない。
もし、そこで先輩が無闇に介入して、後輩の練習の機会を奪うなら、病院は機能しなくなる。
注射を打てる看護師の前に列ができるというような事態になりかねなさい。

さて、日本の教会は機能しているだろうか。
主任牧師以外の人が神の導きを受け取るなら、統制が取れなくなって混乱すると考えるなら、ほとんどの人々は受動的な指示待ち族になってしまう。
また、たとえ、万人祭司の原則に同意し、すべての信者が神に聞きながら隣人を愛することが大切だと教えても、もし実地訓練がないなら、その教えを生活に適用する人たちを見ることはほとんどできない。
いくら上手に説明しても、また、聴衆を感動させることができたとしても、それが聴衆の生き方に直結することは稀だ。

聞いたことは10パーセントしか記憶に残らない。
見たことは15パーセント。
見て聞いたことは、20パーセント。
話し合ったことは、40パーセント。
体験したことは80パーセント。
もし、人に教えるならば、90パーセント記憶に留まる。#4
イエスが実地訓練を重視なさった理由がそこにある。

ということは、説教だけだと10パーセント、視覚教材を使うと20パーセント。
互いに話し合うならば40パーセント記憶に残るという計算になる。
イエスはよく弟子たちに質問された。
彼は質問の達人だった。
また、「一対他」のモノローグではなく、グループで自由に発言することができるようにされた。
誰でもイエスに直接質問することができた。
イエスは、グループダイナミクスを上手に用いられた。
イエスの弟子グループには、誰かが一方的に話すのではなく、「互いに教え、互いに戒め」(コロサイ3:16)るという文化が根付いていた。

また、イエスは、まず模範を示した上で、ご自分が見ている所で被育成者に練習させられた。
洗礼にしても、悪霊追い出しにしても、いやしにしても、問題が起こったときには助けることができる状況の中で、現場で実践する機会を弟子たちに与えられた。
ベテランの看護師が新人看護師を見守るのと原則は同じだ。
そして、一人前にできるようになったら、二人だけで派遣された。
弟子たち自身が自立的に命令を実行する経験と、他者に教える経験をさせられたのである。
そのことを通して、ご自身が天に挙げられた後にも、弟子たちが神の国の働きを継続できるようになさったのである。

日本の教会が、実地訓練の要素を導入するために、5つの提言をする。

1)礼拝に双方向のコミュニケーションを取り入れる。話し合うならば、一方的に教えるよりも、四倍記憶に留まるようになる。
2)リーダーが、神に聞き従って隣人を愛するという生き方を人々に見せる。被育成者を家庭に招いたり、一緒に宣教旅行に行くことなどが考えられる。
3)被育成者を自分の手足のように使わないで、失敗をしてもよい環境の中で、自分で神に尋ね、自分の頭で考えることができるように助ける。時には、リーダーに対して「別の角度から取り組んでもいいですか。」などと言えるようでなければ、自立に向かって成長しているとは言えない。
4)被育成者を大胆に派遣する。冒険が人を育てる。
5)自分がいなくても働きが進むようになるためにはどうすればよいか、と常に考える。あるいは、自分が現場を去る日を決めて、段階的に具体的に、自分が去った後の働きの進展について準備する。

 

2)未信者のために祝福を祈る

日本では、「皆様のご健勝とご多幸をお祈りいたします。」などという祈りの言葉を、手紙の文面や挨拶の結びに入れることが一般的だ。
これは、相手の祝福を祈るというコンセプトが文化に内包されていることを示している。
実際には、日常生活の中で、誰かのためのために個人的に祈るなどということはほとんど行なわれないのだが、この文化的要素を神の国の視点で活かすことができる。
ある程度相手に信用された段階で、「あなたのために何かお祈りしてもいいですか」と聞くと、筆者の経験では、十中八九祈らせてもらえる。
そして、ほとんどの場合、祈られた相手は喜びに満たされる。
おそらく、個人的に祈ってもらうというようなことは、生まれて初めての経験なのだと思う。
そのとき、実際に神の平安が相手に留まるのを見る思いがする。

たとえ祈る機会が与えられなかったとしても、相手の優れたところ、また頑張っているところを心に留めて、それを言い表すことで、祝福が相手に伝わっていく。
パウロは、「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」(ピリピ4:8)と勧めた。
実際、未信者の日本人から教えられることはたくさんある。
まだ神を知らない未信者の弱点を並べ立てても、何も生産的なことは起こらない。
むしろ、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)という命令に従うことで、こちらが祝福したいという思いでかかわっていることが伝わるのだ。

信者、未信者にかかわらず、夫婦関係や嫁姑の関係で葛藤を覚えている人は多い。
関係回復のためにまず最初にすることは、相手の祝福を祈ることだ。
アダムがエバを始めて見たときに、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」(創世記2:23)と言って一体感を表明したが、罪を犯した後は、「あなたが私のそばに置かれたこの女」(創世記3:12)が自分に罪を犯させる原因となった、と言ってエバを神に告発した。
エバばかりか神をも間接的に非難したのだ。相手の悪口を言うことは、その人を自分のそばに置かれた神に文句を言うことに他ならない。

そういう人たちに対しては、食事の度毎に、たとえば、「神様、このようにやさしい夫を私に与えてくださって感謝します。わたしのそばにこの夫を置いてくださった神様を賛美します。」と祈るように勧めている。
こじれてしまった感情を脇に置いて、信仰によって「ふたりは一体」(創世記2: 24)という霊的な現実を認め、神を賛美し始めるときに、まず祈る人の気持ちが変わる。
そして、多くの場合、祈る人にもたらされた態度の変化を見た相手が、神に扱われるのだ。

未信者のために平安を祈るときに、少なくとも四つのことが起こる。
第1に、神が相手を祝福しようとしておられる思いを受け取り直すことができる。
第2に、相手が平安を受け取るにふさわしければ、平安を受け取る。
第3に、神が相手に語っておられる内容がわかる。
第4に、相手にどのように、どの程度かかわるべきなのかを見分けることができる。
第3の項目については、「3−5」の項で、後述する。

第4の見分けについては、本項で説明する。
ルカの福音書第8章5-15節に、種まきのたとえがある。
中東の種まきは大雑把で、種がどこに落ちるかは風任せで予想がつかない。
福音の種まきとはそういうもので、土地を選んで撒くことができない。
だから、豊かに大胆に撒く必要がある。
ただ、どのような地に落ちたかによって、その後の状態が変わってくる。
悪魔が来て、心からみことばを持ち去られてしまった人たちや、試練のときに身を引いてしまう人たちがいるが、その人たちは、そのうちに教会からいなくなる。

教会に留まる人たちは二種類の人たちだ。
まず、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならない人たちだ。
この人たちは、いつまでたっても成熟しないで、同じ問題の周りをぐるぐる回る。
また、リーダーの関心を自分たちに向けようとする。
もう一種類の人たちは、正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる人たちだ。
この人たちが、その地域の未来を担っている。
リーダーは、実を結ばない人たちを見放してはならないが、良い地へのかかわりの優先順位を高めなければならない。

多くの場合、伝道の最初の段階で、良い地が誰なのかを見分けることができる。
なぜなら、祈った平安がその人に注がれているかどうかを見極めることができるからだ。
ルカの福音書第10章の七十弟子派遣エピソードでは、家長が受け入れないことがわかったら、足のちりさえもぬぐって立ち去るようにと命じられている。
足のちりをぬぐうほどなのだから、当然食事の接待を受けなかったはずだ。
最初に平安を受け取るかどうかで、後でどの程度その人にかかわるかという目安をつけることができる。

神から与えられる愛に動機付けられて、未信者のために大胆に平安を祈り、相手が平安の子がどうかを見分け、その後のかかわりの程度を決めることが、宣教の最初のステップになる。

 

3)学校型キリスト教からの脱却

イエスの弟子集団の中で、パンを割くということには、特別な意味があったと思われる。
日毎の糧を今日も与えてくださった神に感謝をささげ、自分たちの生活がまったく神に依存するものであることを告白し、金銭ではなく神に仕える決意を新たにした。
また、安息日の伝統を引き継いだ彼らには、過越の子羊の犠牲を想起するものでもあった。
神の救いの物語を、パンを割くことで辿ったのだ。
最後の晩餐以降、キリストの十字架の犠牲を思うという意味が加わり、主が来られるときまで主の死を告げ知らせるという宣教の方向付けがなされた。
さらに、一つのパンから食するがゆえに、一つのからだだという一体感を確認するという意味もあったし、貧しい人を食事に招くことで生活を援助するという機能も含まれていた。
このように食卓で、感謝や礼拝が捧げられ、救いの歴史が確認され、宣教の決意がなされ、家族としての交わりがなされ、社会的責任が果たされたのだ。

西洋の宣教師が紹介して日本に根付いた「学校型キリスト教」は、イエスの弟子集団が持っていた豊かな食卓の交わりの機能を、教室や講義棟での学びに分解したものだ。
統制された教室の中で、一人の教師が一方的に話す講義や講演会では、一人ひとりの信仰の戦いや葛藤や勝利や悔い改めが分かち合われることは少ない。
一人が話し続けるということは、見方を変えると、他の人の話す時間を制限していることだし、双方向的なコミュニケーションをないがしろにしていることだ。
かくして、フィードバックを受けつけない教師の教えは、人々の生活実感から切り離されてしまう。
また、神に従って隣人を愛するようにと互いに励ましあう交わりの機能は、ほとんど失われてしまう。
いくら聖書を正しく解き明かしても、「一対他」のモノローグの設定では、聴衆のライフスタイルに変革をもたらすのは難しい。

学校型キリスト教を、水族館にたとえることができる。#5
水族館では、サメが、アジやイワシと並んで泳いでいる。
自然界では餌となるはずの魚を、水槽の中のサメが捕って食べないのはなぜか。
狩りをしなくても、時間になると死んだ魚が上から落ちて来くるので、わざわざ逃げる魚を追いかけなくても、上を向いて口を開けれていれば命を保つことができるからだ。
それに、いつも意図的に満腹状態にされている。
水族館のサメは、飼育員に依存し、神が与えられた狩猟本能を発揮することなく死んでいく。
生きた食物を自立的に捕るという創造のデザインとは別の仕組みで延命させられているのだ。

サメが飼育員に依存するように、人々は良い説教者に依存しがちだ。
ある有名な聖書学者の教会は、世界中から集まるファンでいつも満員御礼だったが、彼の没後教会は閉鎖された。
良い牧会者にも人々は依存しやすい。
いつも話を聞いて励ましてくれる牧会者が、自分をどう扱ってくれるかということが生活の一番の関心事となる危険がある。
良い伝道者にも人々は依存してしまう。
自分で伝道しないで、プロの伝道者のところに人々を連れてくる。
神様の導きを正しく受け取る指導者にも人々は頼ってしまうことがある。
自分で直接神様に聞かないで、指導者に導きを仰ぐ。
リーダーの教えや世話が、人々が自立的に、また直接的に神に向かうことを妨げてしまうことがあるのだ。

水族館のもう一つの問題点は、子孫を生み出すこともテクノロジーに頼ってしまうことだ。
ある魚の養殖には、高度な技術が要求されるが、自然界では人の手によらずに繁殖する。
自分であくせくしなくても、誰かが餌をくれて、誰かが子孫を生み出すことまで助けてくれる人工的な環境では、「生めよ、増えよ。」と命じられた神の命令を実行することはできない。
水族館に行くと、たくさんの魚がいるようだが、水族館がある地域の海にどれほど魚がいるだろう。
水族館の外には、天敵を含めた様々な危険があるが、安全な水槽の中にいては、海を子孫で満たすことはできない。

イエスの弟子たちが、霊的な生命を保ち続けただけではなく、霊的な子孫を生み出し続けることができたのは、彼らが安全な場所に留まらないで、派遣され続けたからだ。
そういう意味で、ルカの福音書第10章の七十弟子の派遣記事は重要だ。
それは、イエスが召天された後も、先輩の弟子が後輩の弟子を派遣するというDNAを刻み込むイベントだったからだ。

宣教地に出かけていくと、狼の中にいる羊のような状態になることがある。
また、持ち物や方策に頼って何かができるほど、異文化宣教は生易しくはない。
先輩の弟子にすれば、後輩をそのような危険な所に送り出すことに躊躇を感じることもあっただろう。
一方、後輩の弟子にすれば、先輩たちと離れたくないと思うこともあっただろう。
しかし、彼らは、羊飼いのいない羊のように、弱り果てて倒れている人々を見て、「かわいそうに思われた」(マタイ9:36)イエスの心を受け取って、自分がまず出て行き、さらに後輩たちを派遣したのだ。
そのことが、結果的に共依存のリスクの克服に繋がったのだと思われる。

学校型キリスト教から脱却するために、四つの提案をする。
1)イエスのあわれみを受け取りなおす。たとえば、駅の改札口に立ち、行き交う人々のことを、神がどう思っておられるかを黙想するとよい。コミットしたクリスチャンが人口の0.2パーセントしかいないと想定すると、1,000人とすれ違って、やっと一人のコミットしたクリスチャンと会うことができるという計算になる。
神が、失われつつある998人のことをどう思っておられるかを考えるのだ。
2)専門家のモノローグの時間を少なくし、信徒同士のダイアローグの時間を増やす。
3)後輩を連れて宣教旅行をし、後輩に大胆に働きを委ねる。
4)テレビを消して食事のときの会話を楽しむ。

 

4)郵便配達といやし

そもそも、習得が難しいと言われている日本語を勉強して、日本に住もうというほどの宣教師は、大概インテリで、物の見方は二極分化している。#6
彼らは何を見ても、超越的な神を探求する「宗教的領域」か、自然現象を分析する「科学的領域」かの、いずれかに属する事象だと決めつけて物事を理解しようとしがちだ。
一般的に、宗教的領域は見えないし経験できない他界の領域だと考える一方、科学的領域は見えるし経験することもできる現世の領域だと考える。
神は遠くにおられる権威ある方なので、下々の者は理解することも接近することもできない。
そのため、専門家に解説してもらったり、仲介してもらわなければならないと考えるのだ。

だが、見えない他界の上層と、見える現世の下層の間には、見えない現世の中間層があり、それは、聖書の中に豊かに描かれている。
たとえば、まじない、お守り、天使の出現、悪霊祓い、他の神々との対決、癒し、預言、口寄せ、奇跡等だ。
ヘブル的世界観と比べると、インテリ西洋人宣教師の世界観には、この中間層への意識が極めて乏しい。
だから、病気になると医者に行くし、聖書「研究」を大切にする。
見えない他界におられる神を知るためには、知識が必要だと考えるからだ。

では、日本人はどうか。
日本人は占い好きだ。
テレビ番組の朝の各局の占いを全部見てから一日を始める主婦たちがいる。
夏になると怪談話で盛り上がる。
霊媒師やチャネラーは、今や子どもが観るアニメの世界の主役となっている。
「虫の知らせ」を察知する日本人の課題は、インテリ西洋人宣教師には理解しにくい。
西洋人は、日本人が結ぶ諸霊との関係を偶像礼拝だと切り捨てて、唯一神を説明しようとする。
また、彼らは、「見える現世の科学の世界では理解できないことがある。それが神だ。」と逆説的に説明しようとする。
だが、日本人の言い分は「神と言ってもいろいろあるからな。」である。

宣教師の世界観に中間層が除かれているように、日本人の世界観には、宣教師が宗教と分類している上層が欠落している。#7
「世界の外におられる神」という概念を理解する日本人は少ない。
神話によると、神もまた世界から生まれたものなのだ。
そのため、神、罪、救いの三段論法は、最初のホップでつまずくことになる。
日本人に対しては、諸霊との交信を性急に否定せずに、霊であられるイエスと交信できる幸いを証しする方がよい。
前述のように、祈りは文化に内蔵されているのだから、共に祈ればよいのだ。

説明を最小限にして、イエスとの人格的な関係を経験するように助けると、正しい交流のチャンネルが強化される。
すると、他のチャンネルは必要なくなってくる。
そうなった後に、イエスが世界の外におられる創造主だと説明すればよいのだ。
宣教師は、神と日本人との間に入って、合理的に説得しようとしなくてよい。
日本人と一緒に祈り、祈り方を教え、祈りの結果を共に確認し、一緒に感謝をささげることだ。
祈りを通して神を経験して関係が深まると、後は神ご自身が教えられる。

祈りを通して、しばしば不思議な働きが起こる。
それらには二つのカテゴリーがある。
第一に、知らないはずのことが言い当てられることだ。
サマリヤの女に対して、イエスが「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。」(ヨハネ4:18)と語られ、そのことを通してスカルの町が救われていったが、それと同様のことが、今も日本で起こりつつある。
神は日本人を何とかして救い出そうとしておられるので、その人にしかわからないようなことを働き人に知らせ、それが明らかにされることを通して、神がその方を愛して人生にかかわり続けておられることを知らせられるのだ。
働き手は、郵便配達人のようだ。
忠実に配達の職務を果たすときに、手紙の書き手の思いが、受け取り手の心に伝えられる。

第二のカテゴリーは病のいやしだ。
未信者に会って、「祈ってほしいことがありますか」と聞くと、「健康」と答える人が多い。
家族や自分が健康であることは、多くの日本人にとって幸せのバロメータとなっている。
神は、この日本人のニーズに答えてくださる方である。

 

5)権威をもって宣言する

「死んだらどうなるか知っていますか?」と未信者に聞くと、たいてい三種類の答えのうちのいずれかが返ってくる。
一つは、分からない。
もう一つは、無になる。
最後に、輪廻転生する。
そこで、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と言い、ヨハネの黙示録20章から、人生の清算と裁きと判決後の二種類の処遇について話す。

そして、「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれ」(黙示録20:15)ることを説明し、「あなたの名前は、いのちの書に記されていると思いますか」と聞く。
そうすると、直前の罪の説明に納得した人は「しるされていないと思う」と答えるし、そうじゃない人は、「わからない」と答える。
筆者はそのときに、「あなたの名前はしるされていません。」と申し上げる。
そして、「確実にいのちの書に名前が記される道があるのですが、知りたいですか」と聞くと、ほぼ全員が知りたいと答える。
それから、イエスの十字架と復活について話すという具合だ。

死後の世界について、様々なことを言う未信者がいても、確信をもって話すことができる人はいない。
だが、私たちが聖書から話すときに、創造主の権威をいただいて宣言することができる。
人々は、宣教者の内にある確信に反応するのである。
だから、「これは宗教じゃないのです」などと言い訳したり、「あの教派とはここが違うのです」などと説明したりする必要はない。
イエスは、「聞く耳のある人は聞きなさい」(ルカ14:35)と叫ばれた。
福音をはっきり告知した上で、そのときに聞く耳のない人には、それ以上説明する必要はない。
聞く気持ちになったときに、話す機会があれば話すというスタンスでよい。
この世では皆悩みがあるので、苦難にぶつかると、後日聞く耳を持つかもしれない(ヨハネ16:33参照)。

あるとき、遠い親戚の年配の婦人が、山奥の病院に入院先を変えたという知らせを受けた。
見舞いに行き、病室に入ると、6人の年配者が無言でベッドに横たわっていた。
誰がその人かを見分けることができずに戸惑っていると、一番奥のベッドにいた婦人が声をかけてくれた。
近づいてその方を見ると、もともと小さな方だったが、極度に痩せておられた。
また、頭を剃っておられた。
あまりにも小さくなられたご様子を拝見して涙がこぼれた。

彼女は、小さな声で私の名を呼んで話しだした。
「みつお君、あなたを待っていたんよ。あなたが何年も前に聖書をくれたときに、信じとけばよかった。でも、今では、こんな姿になってしもうた。」
私は、「おばあちゃん、まだ遅くないよ。」と言って福音を語った。
彼女は長年仏教系の新宗教に心酔しておられたのだが、その日、イエスを心にお迎えし、病床洗礼を受け、とても喜んでおられた。
そして、二日後の朝、やすらかに息を引き取られた。
私たちの周りには、入院はしていなくても、私たちの名を呼んで、「あなたを待っていたんよ。」という人が置かれているのだと思う。
もし、私たちが躊躇するなら、神が会わせてくださった方に生命の道を紹介する機会が永遠に失われてしまう。

イエスは、日本をご覧になって、「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ:4:35)とおっしゃっているのだと思う。
今刈り取らなければ、せっかくの収穫が無駄になる。
ルカの福音書第10章の文脈は、種まきでも、耕しでもなく、刈り取りだ。
回りくどく説明する必要はない。
まっすぐに真理を語ることで、信じられないほど多くの日本人を救いに導くことができる。
今は収穫の時なのだ。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(第2テモテ4:2)

おわりに

日本の地方教会でなされている説教は、七十弟子の派遣記事で示唆されている「四世代以上続く弟子育成の連鎖反応」という目的達成のためには、ふさわしい営みだとは言えない。
真理を指し示すことと、その真理を聴衆が生きるということはイコールではない。
ましてや、真理を体現した人が、生き方を通して他の人に真理を伝えるというのはライフスタイルの課題であって、会堂で教えるだけでは成し遂げられない。
また、宣教地に派遣された弟子たちが、今度は派遣する側に立って、他の弟子育成者を派遣するというムーブメントは、実地訓練なしには起こらない。

本稿では、双方的なディスカッションの導入、リーダーが模範を見せる工夫、思い切った弟子たちの派遣、最小限の説明と祈り、権威を伴う宣言などの、説教以外のコミュニケーションの具体的な適用について提案した。
しかし、より大きなテーマは、今日本に訪れている収穫の時に、魂をどう刈り取るかという課題である。
刈り入れを待っている畑に、種や鋤を持って出かけても役に立たない。
各地域の収穫を刈り取る働き人が、そこに派遣されていく弟子たちによって起こされていくというビジョンを、目を上げて見させていただき、「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈」(ルカ10:2)る必要がある。

『福音主義神学』(第43号)より転載