ビジョンではなく叫び

2010年11月23日に、兵庫県三田市で、14名の有志が集まり、グループのビジョンについて、祈ったり話し合ったりしました。

1   家族

パウロは、「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」(1コリント9章26節)と述べています。競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりです。だから、目標を立てないで、やみくもに走っても、「朽ちない冠」を得ることはできない、とパウロは主張しています。

このことは、個人だけではなく、グループにも当てはまります。箴言には「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」(箴言29章18節)と記されています。もし、神がグループを通して何かを成し遂げさせようとしておられ、もしグループがその召しに忠実であろうとするなら、神から与えられた幻を意識して、そこに思いを集中させる必要があるのです。

ところが、グループのビジョンを明確にし、それを「踏み絵」にすることで、仲間だった人たちが袂を分かち、グループが分裂することもあります。集団には達成目標を掲げる成果志向のものと、すでにある関係を大切にする交わり志向のものがあります。たとえば、家族の場合は、たとえ同じ方向を向いていなくても、互いを尊重し、理解し、支えることができればそれでよいのです。目指す目標が違うからと言って、家族でなくなるわけではありません。

もし、私たちの交わりが家族のようであり、互いの違いを受け入れあい、それぞれが神から与えられている戦いを、よりよく戦うために応援しあうものであるなら、あえてビジョンを明確にする必要はありません。今年1月に初めて集まったときに、私たちはすでに夢を見ました。「あなたの歌を、私も一緒に歌わせてください」と申し出る交わりの中で、「私の歌を一緒に歌ってくれる仲間がいる」と肌で感じる関係の中で、多様だが一つの流れとなった「神のメロディー」が奏でられることを..。

ある参加者は、10ヶ月間を振り返り、この交わりは、戦いに疲れたときに戻ることができる「港」のようだった、と言いました。たくさんのメンバーから「ひとりじゃないよ」と言ってもらって、嬉しかったとのこと。他の参加者は、もしこの会に出会っていなかったなら、自分と家族はどうなっていたかわからない。今に至るまで、皆で集まることで、また、具体的に働きの場で助け合うことで、支えられたり、支えたりしている、と告白しました。

2   共鳴する祈り

次に、ビジョンや目的ではなく、神から与えられた共通の祈りがあるかどうか、という議論になりました。

たとえば、スコットランドの宗教改革者であるジョン・ノックスが、「我にスコットランドを与えたまえ、然らずんば死を。」と祈った祈りは、多数に共有された祈りでした。実際、スコットランドがノックスに与えられたのは、ただ神とノックスの間の個別の呼応の結果であるだけでなく、彼の祈りがグループ全体の祈りとなった、あるいは、各自の祈りと共鳴しあった結果だったのだと思います。だからこそ、女王メアリーをして、「ヨーロッパの全軍隊よりもノックスの祈りの方が恐ろしい」と言わしめた、政治的・軍事的勝利を収めることができたのです。

この話をしていたとき、ある参加者が、今年の1月18日に最初に集まったときに、私が大声で叫んだことを思い出しました。「僕の目が黒いうちに、日本に主の弟子が満ちるようにならないなら、殺せ!」というような過激なことを叫んだのを覚えています。その方の奥さんは、私の叫びを聞いて、このグループでやっていこうと思ったそうです。

ここで大切なのは、私がその夫婦を引き止めるために叫んだのではない、という点です。そういう「人工的」なものではなかった。それは、いわば、神が植え付けてくださった思いの自然な発露だったのです(ヤコブ1章21節参照)。このような祈りは、私のように皆の前で叫んでしまうキャラクターの人でなくても、各メンバーがそれぞれ与えられているのだと思います。それで、その祈りを互いに分かちあうことになりました。このような分かち合いを通して、表現は違っても、本質的に共鳴する要素がその中に含まれていることを、私たちは発見していくのだと思います。

神がこのような内面の探索を導いてくださっているのは、日本並びに世界宣教が緊急を要しているからなのだと、私は理解しています。もともと、私たちが1月に集まったのは、近いうちに日本に大地震が起こるという預言があり、それに備えるためでした。そして、4日間の祈りの末に導かれたことは、地震に伴って始まる大収穫に備えるということでした。目の前に危機が迫るときに、私たちの祈りの声も高くあげられていくのだと思っています。

福田充男
2010年12月7日