■恥を取り除く福音
私たちは皆、福音を知っています。イエスが私たちの罪のために死なれ、私たちが神の前に義と認められるために私たちの代わりに罰を受けてくださった事を…。多くの人にとって、特に西洋の宣教師や西洋の影響を受けた教会を通して信仰を持つようになった人にとっては、これが福音についての唯一の考え方です。
つまり、神は審判者であり、私たちの有罪を無罪に変えてくださる、と。しかも、このような説明を「ローマの道」と言われる方法で聞かされたのではないでしょうか? ローマ人への手紙を通して、罪と罪責感、無罪か審きかというような「無罪と有罪」の観点から福音を提示する方法です。
けれども、ローマ人への手紙を詳しく見ていくと、上に挙げたようなことは、この手紙の中心的な主題ではないことがわかります。パウロは「有罪」という事について一切触れていませんし、「赦し」、「無罪」という事についてもそれぞれ一回しか触れていません。
これに対して、「恥」という言葉は6回、「名誉」は15回、「栄光」は20回も使っているのです。ということは、パウロにとっては「恥」や「名誉」という言葉の重みの方が、「有罪」、「無罪」という考えよりもはるかに重要だったと言えるのではないでしょうか。
昨年、「US Center For World Mission(アメリカ世界宣教センター)」が発行している雑誌 「Mission Frontiers(ミッション・フロンティア)」が、「名誉と恥の文化」というテーマ一色の特集を組みました。世界で福音をまだ聞いたことのない人たちの大半は、アジアかアラブの文化圏に住む人たちです。そこでは、名誉と恥が彼らの重要な価値観であり、この価値観に基づいて人々の生活が形成されてきたのです。
聖書の舞台である一世紀の中東文化もその一つです。同誌は、名誉と恥という点に光を当てると、多くの難解な聖書箇所がずっと分かりやすくなると書いています。