■自分は衰えるリーダーシップ

近頃、キリスト教の世界では、リーダーシップということがますます話題になっています。教会にあるべきリーダーシップとはどのようなものか、キリスト教のリーダーシップはどういう特徴を持つのか、などと質問することが流行っています。しかし、リーダーシップと直結する「力」または「パワー」というテーマは話題にされません。「リーダーシップ」には魅力がありますが、「パワー」というと、世俗的なことを連想させます。

リーダーシップには陰の面があることも忘れてはなりません。リーダーシップは多くの人を祝福することができ、人生を変える力もあります。しかし、それと同時に、危険もはらんでいます。リーダーシップを持つことに快感を覚えてしまう可能性もあるからです。私自身がその快感を知っています。けれども、神様はそんな私を助けて徐々に変えてくださいました。まだまだ足りませんが…。

15歳のころ、父が家を出ました。しばらく連絡がなかったのですが、ある日父の手紙が届きました。もう会いたくないと書かれていて、その後縁を切りました。自分はクリスチャンだから父を赦さなければならないと思い、怒りや悲しみや寂しさがあるのに、それを適切に処理せずに、早く赦して忘れようと決心しました。自分は平気だと思っていましたが、その実、深い傷が残りました。

私を愛してくれる父がいなかったので、無意識に父の代わりになりものを探していました。それは、人の注目を引くことでした。もし自分が何でも一番になれたら、もし自分が目立つ人になったら、人は私を注目するだろうと考えました。そのために無理をしてでも頑張りました。