■宗教改革500年を記念して(5)

紹介文
宗教改革500年を記念して、ヴォルフガング・ジムソンによる「教会が生まれ変わるための15ヶ条の論題」シリーズを、13の論題まで紹介してきた。残るはあと2つの論題で、14番目のテーマは「迫害」である。

迫害のことについて今触れておくことは、非常に重要だと私は考えている。私たち日本人クリスチャンの中には、様々な迫害を体験してきた人もいるかもしれないが、日本という国自体は、クリスチャンが非常に住みやすくなったと思う。

あるとき、現在も迫害を経験している中央アジアの兄弟姉妹たちが自分たちの迫害の体験を宣教会議で分かちあってくれたことがあった。彼らはそこにいる欧米のクリスチャンに、「欧米の兄弟姉妹、私たちの迫害の話を聞いても心配しないでください。迫害はあなたたちにも必ずやってくるのですから」と言った。それを聞いた私は、身の引きしまる思いがした。

ジムソンがこの14の論題で論じていることを通して、私たちキリストと歩む者がこれからどのような歩みをすれば良いのか、また私たちはどのような時代を迎えようとしているのかを考えてみたいと思う。


第14の論題:迫害に耐えられる精神を培う

<勘違いの迫害>
日本のクリスチャンは、多かれ少なかれ、どこかで信仰のために迫害されているかもしれない。それを考えると、今さらこの「RAC通信」の読者の皆さんに何を言えばいいのだろうと、手が止まってしまった。しかし、これは絶対に避けることができないトピックだという確信はある。葛藤する中で、今まで自分が迫害だと思っていたことの中には、実はそうではなかったものがあるということに気付いた。

ひとつのエピソードを紹介したいと思う。大学に行くために上京する前、父が私にこう言った。「酒もやっていい、遊びもやっていい。ただ宗教にだけは関わるなよ」と。それに対して私は「絶対に大丈夫」と笑いながら答えた。しかしそれから半年後、私はイエスさまと歩む決心をした。両親は、「やっぱり」という感じで、私が他のクリスチャンや教会と関わりをもつのを、ことごとく阻んだ。それを私は迫害だと思い込み、迫害に関する聖書の言葉にすがり、迫害から守られるように仲間たちにも祈ってもらった。

でも、今振り返ってみると、これは迫害ではなかったのでは、と思うのである。家族は、私が危険な宗教に巻き込まれてしまったのではないかと真剣に心配してくれていた。それは、家族として当然のことである。短い休みの間に帰省して、日曜日にせっかく家族全員が揃ったのに、私は朝から教会に出かけ、ほぼ一日帰って来ない。

おまけに、家族に一生懸命伝道しようと張り切っている私は、「お父さん、お母さん、あなたたちには罪があるんです」と始めるのだ。これまで一生懸命生きてきた自分に向かって、まだ自分のすねをかじっている娘がそんなことを言ったら、怒るのも無理はない。