■「キリスト教」と「クリスチャン」という判断基準から離れる
紹介文
クリスチャンの少ない日本では、キリスト教に関心がありそうな人に出会うと、嬉しくなって特別扱いしてしまうことはないだろうか。クリスチャンや求道者を、未信者や無関心な人にまさって厚遇する行為は、一見害はなさそうに見えるが、神さまの働きを妨げてしまう危険性がある。
「キリスト教」あるいは「クリスチャン」の価値観ではありがちな事が、無意識のうちに神の国の価値観からずれている可能性があることを、ひとつの角度から考えてみたいと思う。
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「あなたは一体私と彼らとどちらの味方なの?」アリス(仮名)は詰め寄る。アリスはアメリカからの宣教師、そして彼女が「彼ら」と呼ぶ人たちは、イスラム圏のとある国で、私が所属する団体の事務所で働いていた現地の人たちである。
H市があるA国ではそれまでに民族間の対立が絶えず、内戦で国はボロボロになっていた。争いに疲れた国民は、これまで対立していた民族の人とも同じ職場で平和にやっていくという決断をした。多民族の同僚に気をつかってみんなの前では自分の民族の言葉で歌われている曲はかけないとか、あえて自分の民族の言葉ではなく、公用語を話すなどの努力を日々していた。
私たちの事務所も例外ではなかった。スタッフ7人の民族も、背景も様々であった。あるとき、それまで一生懸命友好的に働いてきた現地のスタッフの間に、不和が生じ始めた。そしてその背後には、アリスがいるということがわかってきたのである。