■キリスト教は外国の宗教なんだなあと感じる時:聖餐式の場合

紹介文
「イエス様は御国を説いた。けれども、今日あるのはキリスト教という宗教である」とドイツ人のヴォルフガング・ジムソンは言う。悔しいが、認めざるを得ない。

ごく普通の日本人家庭に育った私は、クリスチャンになると、「外国の宗教にかぶれた」と家族に非難された。キリスト教は他の宗教とは違うと主張してきたが、あまり説得力はなかった。家族にもクリスチャンになってほしいと思い伝道したが、教会に行ったら、やはり外国の宗教だと言われるとわかっていたので、なんとなく誘えなかった。

キリスト教が外国の宗教なんだなあと感じる時は、実は多くある。今号ではその中でも聖餐を取り上げてみようと思う。


「イエス様は御国を説いた。けれども、今日あるのはキリスト教という宗教である」とドイツ人のヴォルフガング・ジムソンは言う。悔しいが、認めざるを得ない。

私の実家は、そんなに宗教熱心な方ではないが、代々お寺の檀家代表などを務め、地域の宗教行事は家族の行事とかなり重なっていたため、大きな行事の時には家族全員駆り出された。

大学生の時にイエス様と出会い、家族からは「外国の宗教にかぶれた」と責められる中で、「これは、宗教ではなく、神様との個人的な関係なのだ」と主張してきた。けれども自分の教会生活を振り返ってみると、他の宗教を信じている人たちとあまりにも共通点が多すぎて、やはり「キリスト教」は宗教なのだと認めざるを得ない。

自分が信者になってからは、ちゃんとしたクリスチャンになろうと、一生懸命キリスト教の文化を身につけた。充実していたし、自分はそれでも構わなかった。けれども、これから家族がクリスチャンになって教会に行き始めたらと考えると、「別の宗教の習慣を身につけさせる」ことには抵抗があった。