■キリスト教は外国の宗教なんだなあと感じる時:宣教地のあちこちで

カザフスタンに住んでいた時、友達のお母さんに街で行き合った。お母さんの横には、外国人らしきアジア人の女性が立っていて、友達のお母さんは、嬉しそうに私に言った。「あ、ちょうどよかった。前から紹介したいと思っていたのよ。こちらは、『モクサニム』。私の教会の『モクサニム』よ。」(「モクサニム」とは、韓国語で「牧師様」という意味。)

牧師を「モクサニム」と呼んでいるのは彼女の教会だけではない。当時カザフスタンにある韓国系の教会ではほとんどが牧師を「モクサニム」と呼んでいた。

これは、カザフスタンだけではないようである。日本でも、ある宣教師と話していて、「先生」と呼んだら、「モクサニム」と呼んでくださいと直された。なぜ、外国にまで来て、自分の国の言葉で肩書きを使うのか私にはどうしても理解できなかった。けれども、地元の多くの人たちは愛情を込めてそう呼んでいるようである。

そのような呼び方をする時、これが外国の宗教なんだなあと地元の人たちは感じないのであろうか。

カザフスタン北部の町で牧師をしている友人Vが、Facebookに教会の記念会の写真をアップした。私は、彼が南部の町アルマティの神学校で学びをしている時に、彼と同じ教会に行っていた。数年経って彼の教会はかなり大きくなっていた。教会に来ている人たちの中には、ロシア系、カザフ人、朝鮮族など様々な民族の人たちがいる。

その人たちの真ん中に満面の笑みを浮かべたVが立っている。Vは、牧師のガウンを身につけている。ほんの数年前、同じ教会に行っていた頃の彼は、全く普通のおじさんだった。でもそのおじさんだからこそ、地域にうまく溶け込んでいた。そしてその普通のおじさんの立場で人々に福音を分かち合っていたのだった。

でもその写真の中のVは、もうすっかり「先生」になっていた。「先生」になってもVの人柄は変わらないし、相変わらず人々を愛し続けていることは間違いない。それにしても、このガウンはどこで手に入れたのだろう。