■イエスさまと歩んだ男ハビブから学んだこと
紹介文
先日、私が以前住んでいたイスラム圏のとある国の友人から、ハビブが動脈瘤で亡くなったという知らせを受けた。ハビブは、その国にある私の事務所の運転手として働いていた。
イスラム教徒にどのようにイエスさまを紹介するのか試行錯誤する日々の中で、ハビブとその家族にイエスさまがご自身をあらわされるようになったのは予想外のことであった。このハビブと彼の家族と時間を過ごしながら、私はこれまでとはまったく違う宣教の仕方を学ぶようになった。ハビブを追悼しながら、いくつかのエピソードを紹介したいと思う。
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これまで暮らしてきたイスラム圏の国々の中で最も戒律が厳しく政情が不安定なこの国に来て、私は伝道することに戸惑いを感じていた。
戸惑ったのは、自分の身に危険が及ぶことを案じたからではない。そういうことは、起こるときは起こると覚悟を決めていたので、あまり気にはならなかった。むしろ、社会経験の少ない自分の未熟さを思うときに、混迷状態にある国の中でたくましく生活している現地の人たちに対して、どう福音を伝えたらいいのかわからなくなっていたのだ。
また、自分たちが答えを持っているかのような態度でやって来て、現地の人たちの危険も顧みずに「大胆な」伝道をして1、2週間で帰って行く短期宣教チームの人たちと、そのために危ない目に遭う現地の人たちとを見て、自分の言葉や行動がもたらす影響で友人やその家族を危険に陥れるのではないかということが怖かった。
この国では仕事にも買い物にも一人で行くことはほとんど許されず、いつも運転手であるハビブの送り迎えに頼っていた。たまに比較的安全なときに、一人で友達の家に歩いて行ったり、市場に行ったりすることもあったが、ハビブは心配だからと言って同行することを好んだ。だからある意味では、現地で一番多くの時間を過ごしたのはハビブだったと言える。
ある日、私が仕事に向かう車の中で、ハビブが真剣な顔でこう言ってきた。「イエスの映画を見た。イエスは、本当に人を愛したんだ。すごいんだよ。病気も癒せるんだ」と。だいたいこの国では、誰かがこのような話をしてきても、最初はすぐに反応を示さないようにしていた。罠である可能性があるからだ。