■戸の外に立ってたたく

紹介文
「野生のキリスト教」を紹介するTV番組<https://www.youtube.com/watch?v=QqavJlzY3UU>を観た視聴者からいただいたお叱りのメールに、どうお答えしたかをご紹介します。まず、本の読者やTVの視聴者が伝統的教会の兄弟姉妹であることを示し、メッセージの受け手をリスペクトして話したことを説明しました。

次に、水族館型教会に属する神の民が、どの程度、どのくらいのスピードで水族館から離れるのかは、野生の神の民からあれこれ指示される類の事柄ではなく、自分で主体的に判断すべき課題だと述べました。

最後に、どちらの神の民も、外の扉をたたいておられる主の語りかけに耳を傾けて自分を吟味し、もし、導かれるならば、主が扉を叩く音に共振することで、相手を裁くのではなく助けるようにとオススメしました(参照: 黙示録3章20節)。


・TV番組の視聴者からのご批判

「野生のキリスト教」と題した拙著を紹介するインターネットテレビ番組をご覧になった視聴者から、放映後、メールで直接ご意見を賜りました。伝統的教会を助けている伝道者であるインタビュアーと私の二人だけが登場するスタイルの番組だったのですが、私の受け答えにいつもの熱さやキレがないというご指摘でした。

メールには、「伝道者ががっかりしようが、喜ぼうがそんなことは全然関係なくて、神様が喜んでいるかどうかが大切なんですよ。あなたは、伝道者の感情に気を使っている。『それが依存なんだけど…』と、突っ込みながら拝見していました」と記されていました。

そのご批判に対する私どもの応答をご紹介します。ポイントは三つです。

・メッセージの受け手を尊重する

「野生のキリスト教」という書籍も、それを紹介するTV番組も、対象者は伝統的教会に属する人たちでした。水族館型教会とは、教職者(飼育員と飼育するシステムに相当)と会堂で繰り広げられるプログラム(水槽と設備に相当)によって生命を保つキリスト教の形態のことです。

彼らは、「水族館の外に広がる野生の海で生活をしている人たち」ではありません。住んでいる場所も文化も違う人たちとコミュニケーションするためには、相手の立場をリスペクトしなければなりません。そのため、メッセージの受け手にとって馴染深い用語と考え方を用いて語りかけます

また、もしメッセージの受け手が、「自分たちは批判された」とか「見下された」などと思うなら、感情的になって、理解し始めることさえ放棄するかもしれません。せっかく、「野生のキリスト教」という別の形態があることを理解していただこうと思って本を書いたのに、それでは、出版の目的を果たすことができません。

・キリストにある幼子

意見をくださった方は、私が水族館型教会の人たちに本を買ってもらうために媚を売っていると思ったようです。その方は、「水族館型教会では人は育たない」と確信しておられます。それで、私が水族館のあり方を番組で肯定してしまうなら、そこに留まってしまう人が増えることになるかもしれず、結果として、多くの人々の成長機会が奪われてしまうと考えたそうです。

実は、私も以前は、水族館型教会の住人がコースを変えて、神が遣わされた世界に出て行くようにと働きかけていました。神の命令は、水族館を拡張することではなく、海に満ち、海に神の支配をもたらすことだからです。

水族館の水槽で、いつか海に出て行くときに備えて学習したりシミュレーションしたりするのではなく、神の命令に従って、実際に安全な場所から出て行くときに、神ご自身が、ご自身の民を守り、自分で餌を獲ったり、子孫を産み育てたりすることができるように成長させてくださいます。

その素晴らしさを経験したので、「外に出ていきませんか」と伝統的教会の兄弟姉妹たちにオススメしてきました。けれども、急に水槽の外に出るなら、神に愛されている人たちが立ち往生してしまうと、今では考えています。

どの程度、どのくらいのスピードで水族館から離れるのかは、野生の世界で生きている者があれこれ指示する事柄ではなく、水族館の中にいる神の民が主体的に判断する課題です。中にいる人たちもまた、外で生まれた人たちと同じく、神に愛されている「キリストにある幼子」(第1コリント3:1)だと認め、たとえ時間がかかると感じたとしても、その歩み方を尊重すべきだと思うのです。

・扉をたたく音に共振する

番組を観て意見をくださった方は、野生の王国で神にのみ依存して生活している方です。その方は、水族館の水槽には入ったことがないのですが、水族館型教会に属する友人がいます。それらの友人たちが、あまりにも自信がない言動をするので、その方はそれを見て心を痛めているのだそうです。

なぜ、自信がないのか。それは、教職者が信徒を保護しているので、保護のないところで生きることが難しくなっているからだと思います。野生の世界で生まれた者たちは、誰にも頼らず神と自立的に会話し、神との親密な関係を確かめながら、決断したり行動したりすることが当たり前になっています。そのため、不自由に見える水槽の中で、世話を受けながら生活する者たちが、なぜ、そこに留まっているのかを理解できないのです。

水族館の飼育員の誠実さを疑う余地はないのですが、彼らが魚を保護し過ぎるならば、魚の自立を妨げてしまうという構造については意識する方がよいと思います。また、水槽に魚が満ちることと、海が魚で満ちることとは別の課題だという認識も共有したいと思うのです。

もし、羊の大牧者であられるイエスさまが、魚が本来持っている「自分で餌を獲る本能」や、「子孫を生み出す本能」を解放しようとして、水槽に入ろうとしておられるなら、飼育員は、その語りかけに耳を傾け、魚の本当の所有者であられる方がなさろうとすることに同意すべきだと思います。

黙示録3章20節には、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」と記されています。

教会の主であるイエスさまが、教会の外で「入れてください」と扉をたたいておられる。こんなに柔和でへりくだった方が、私たちの主なのです。もしそうであるなら、海で生まれた魚が水槽の中の魚に、「外に出よ」などと上から目線で指示することはできません。イエスさまがご自分で戸をたたいておられる、それ以上のアプローチがあるでしょうか。

海で生まれた魚も、イエスさまを締め出してしまっている領域があるかどうかを吟味して、王であられるイエスさまにすべてを明け渡して進むべきだと思います。どちらの神の民も相手を裁くことはできません。しかし、いつも、というわけではありませんが、イエスさまが戸を叩かれる音に共振するようにと導かれることもあるでしょう。「野生のキリスト教」という書籍は、誰かを裁くためではなく、助けるために執筆しました。

福田充男

RAC通信】 – 2019.12.03号  福田充男